試論:「神の義」とアブラムを140文字以内で

【問】主イエスは神の国と神の義を求めよと説かれました。創世記15章はアブラムが義とされたと記します。なぜ?
【答】同14章で諸国の王が私利私欲のために戦った時、彼だけは人助けのために行動しました。神なる主は同15章の約束で、彼が目先の私利私欲で動く人ではないと、最終確認されました。

【追記】

【問】天の星の数を彼に数えさせることが、なぜ、彼の義を確認することになるのですか?
【答】もし彼の中に私利私欲のかけらが少しでもあったならば、「わたしは遠い未来の自分の子孫の数のことなんかよりも、自分自身の幸福について具体的に今、目に見えるものが欲しい」などと主張していたはずです。

【問】神なる主が語りかけられたのでアブラムは旅立った(創世記12章)のですか?
【答】創世記はバベルの塔建設の終わりを記しますが人々が悔い改めたとは記さず、力こそが正義という風潮はバビロンやアッシリアに残りました。彼は以前から、故郷に蔓延する風潮に強い違和感を抱いていたのでしょう。

古代ユダヤの歴史家ヨセフスは、バベルの塔建設にアスファルトが用いられた理由について、ノアの時代のような大洪水が来ても押し流されないよう強化するためだったと記し、ニムロド(創世記10章8節)及び彼の王国の国民が、神に対する挑戦的な意図をもってバベルの塔を建設していたことを説明する。

【問】マタイ6章33節「神の国と神の義」や同5章20節「あなたたちの義が律法学者たちやファリサイ派の義に勝らなければ」の「義」って、何?
【答】それらの「義」という訳語はギリシア語原文ではディカオシュネーです。この語は同6章1節「人前で善行を見せびらかせないように」の「善行」です。

【問】山上の説教の「義に飢え渇く人は幸い」の「義」とは何?
【答】サムエル上24章18節「お前はわたしよりも義の人だ。わたしはお前に悪意を示したのにお前はわたしに善意を示してくれた」からも分かる通り、古代のヘブライ人の「〔神の〕義」とは現代の日本語でいえば《善意》を意味しています。

【問】「ヨセフは義人だったので婚約者のことを大っぴらにはせずひそかに離縁しようとした」の意味は?
【答】古代のヘブライ人の「義」は《善意》を指し、彼は「善意の人」であり「お前は俺のメンツを潰したのだから、お前もお前の子も地獄に堕ちろ」などと喚いて大騒ぎしたりは決してしませんでした。

(注)別エントリー「婚約者の妊娠を知った時のヨセフの心情」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3092

マタイ福音書のギリシア語本文はヨセフをディカイオス(1章19節)と呼ぶが、ディカイオスは最後の審判で天国の福楽を確約されている人(25章37節)を意味し、ヨセフがもともと天の国にいてもおかしくないほどに無垢な(創世記6章9節)底抜けの大善人で天使のような人であったことを示唆する。

(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7243

(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4464

【問】聖書の中の「愛」も聖書の中の「義」も、ともに「善意」や「善行」という点では一致しているということですか?
【答】少なくともマタイ福音書におけるディカイオス/ディカイオシュネーの用法を調べる限り、聖書の中で、「愛」と「義」の間に、矛盾や対立や齟齬の類いは存在していないようです。

【問】世間では、既婚者や恋人のいる異性を奪い取る行為を「略奪愛」と呼んだりします。これはキリスト教の愛に含まれますか?
【答】いいえ。全く含まれません。キリスト教の愛の定義は「他の人からしてもらいたいことなら全てあなたから他の人にしなさい」で、これと「略奪愛」は絶対に相容れません。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199