ただ一度苦しまれた???

【問】一ペトロ3章18節「キリストも罪のためにただ一度苦しまれました」? どういうこと?
【答】主イエス・キリストは全人類の罪を贖(あがな)うために、御自身を十字架上の御受難で献(ささ)げられましたが、この犠牲は二度も三度も必要なものではなくただ一度だけで完全に成し遂げられました。

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:世の罪を取り除く神の小羊を140文字以内で」も参照のこと。
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【問】それと同じ事柄は聖書の他の箇所でも記されていますか?
【答】ヘブライ10章の冒頭から18節までの間に詳細に記されています。ペトロが「ただ一度」と呼んだのと同じ事柄を、ヘブライ10章では「罪のための唯一のいけにえ」(12節)「唯一の献げ物」などと表現し、18節も強調しています。

【問】主イエス御自身の福音書の御言葉の中に「ただ一度」に相当する事柄はありますか?
【答】ヨハネ19章30節「イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた」同章28節「イエスは、今や全てのことが成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた」。

詩編49(48)編8(7)節は、神に対して人間が贖いの業を行うことはできないと記す。とはいえ神の御独り子が自ら人間となられて自分の「からだ」を「身代金」として贖いの業を行われた時の「からだ」は、マリアから受けたものだった。マリアは極めて特別な形でイエスの贖いの業に「参加」をした。

(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
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神は本来、神以外の存在に変質(劣化)できない以上、「神が人となる」ためには神のままで人間としての全てを担う(引き受ける)必要があった。これをヨハネ1章14節は「〔神の〕御言葉は肉となる」として記し、ニケア・コンスタンチノープル信条は「おとめマリアよりからだを受け」として表現した。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
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古代のヘブライ人は「肉」という言葉で、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけでなく、魂も含めた人間としての全体)」を表した。ヨハネ1章14節をこの観点で理解すれば、ニケア・コンスタンチノープル信条「おとめマリアよりからだを受け」の「からだ」は、人間としての全てを意味している。

(注)別エントリー「試論:『イエスとマリアの関係』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:聖書と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
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古代のヘブライ人は「肉」を、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけではなく魂も含めた人間の全体。)」を表す言葉として用いていた。創世記6章12節「すべて肉なる者は堕落の道を歩んでいた」(新共同訳)。日本語訳の「肉なる者」に対応する語は、ヘブライ語本文ではただ単に「肉」である。

(注)別エントリー「試論:『肉と霊』の対比を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエス・キリストは、人間たちに模範(ヨハネ13章34節)を示されるために、神であり続けながら(ヘブライ13章8節)人間の肉体と魂を担われた(ヨハネ1章14節)以上は、神として教えられた掟(申命記5章16節)を人間として自ら忠実に実践された(ルカ2章51節、マタイ20章28節)。