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試論:マタイ9章3節の「冒瀆」を140文字以内で

古代のイスラエルでは、イザヤ6章10節にもある通り、神なる主の罪の赦しと癒しとはしばしば同一視された。もしイエスが「あなたの罪は赦された」(マタイ9章2節)と口にしながら癒しを伴っていなければ、確かにその言葉は冒瀆に終わる。しかしイエスの言葉には結果(7節)が歴として伴っていた。

【追記】

ルカ8章48節で主は御自分の服に触れ癒しを得た女性に「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と仰せになった。7章50節でも主は罪の女性に赦しを与えた際に、同じ言葉をかけられた。イザヤ6章10節(マタイ13章15節、ヨハネ12章40節)でも主の赦しは癒しと同一視される。

(注)別エントリー「試論:他人を赦すことを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5300

主イエスはマタイ9章等で奇跡的な治癒(イザヤ35章3節参照)を行われる際、相手に「子よ」と呼び掛けられた。イザヤ書は35章で救い主の到来を預言し目や耳や言葉や手足の不自由な人々の回復がしるしになると記す。また63章16節では、救い主である神は民にとって「父」であると再確認させる。

ルカ2章11節は「あなたたちのために救い主がお生まれになった」マタイ1章21節は「この子は自分の民を罪から救う」と記す。イザヤ35節4節以下は「敵(サタン)を撃ち悪を罰する神が来られ、あなたたちを救われる」と預言し、目や耳や足や言葉の不自由な人々の回復が神の到来の徴になると続く。

四福音書は主イエス・キリストによる病人の奇跡的な癒しをさまざまに記すが、理由はイザヤ35章4節以下で救い主の到来が預言されている通り、見分ける徴は目や耳や手足や言葉の不自由な人の奇跡的な治癒(6節。またヨハネ9章32節参照)であることが、既に数百年前から預言されていたからである。

マルコ8章11節でファリサイ派の人々は主イエスを試そうと「天からのしるし」を求めたのに対し、主は「なぜ『時代のしるし』を悟ることができないのか」とマタイ16章3節で答えられた。「時代のしるし」とは、預言されていた救い主による癒し(イザヤ35章5節以下)と、主によるその実践である。

ヨハネ1章は主イエス・キリストを「言(ことば)」「命」「人間を照らす光」等と象徴的に表現したが、その光は人々が心に秘めた悪意(レビ19章17節)を、容赦なく明るみに出す(マタイ9章4節、同12章25節)。神は罰するべき者は罰せられた(出エジプト記34章7節、民数記12章10節)。