【問】プロテスタントの文語訳聖書『改訳 新約聖書』(1917年)では、ヨハネ14章6節の「真理」に「まこと」と仮名を振ります。理由は?
【答】キリスト教の三位一体の神を、ヨハネはしばしば「真理」と呼びますが、この主なる神に対する信仰は、二心・言行不一致・面従腹背等とは相容れません。
【追記】
プロテスタントの文語訳聖書『改訳 新約聖書』(1917年)では、ヨハネ14章6節で「真理(まこと)」と平仮名を振る。詩編145編18節「主は、まことをもって呼び求める人々すべての近くにおられる」に対応するためだが、詩編のこの節の「まこと」とは、《真心(まごころ)》を意味している。
(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
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詩編145(144)編19節には「主は御自分を畏れる人々の望みをかなえられ、彼らの救いを求める叫びを聞けば願いを聞き入れてくださる」とある。主イエスは水の上から沈みかけたペトロにすぐ手を延ばしてつかまえられ、悪霊に苦しめられ続ける娘を持つカナンの女性の叫びに願いを聞き入れられた。
ルカ18章で主は「やもめと裁判官」のたとえを話されたが、それは「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるため」(1節)で、「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる」また「これがわたしたちの神に対する確信」と一ヨハネ5章14節は教える。
(注)別エントリー「試論:ルカ18章7節を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ2章のカナでの婚礼の際、3節の母の言葉に対し、主は4節でその真意を測りかねる答えをされた。しかし母は5節で、願いが聞き入れられたことを確信して召し使いたちに言葉をかけた。その理由は一ヨハネ5章14節以下に、「これが神に対するわたしたちの確信」という表現とともに記されている。
詩編145編19節は「主を畏れる人々の願いはかなえられる」とし、箴言10章24節は「神に従う人の願いはかなえられる」と説く。マタイ7章7節は「求めなさい。そうすれば与えられる」と主の御言葉を教え、ヨハネ14章13節は「わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう」とも記す。
マタイ6章で主は、祈る際の「これ見よがし」的な態度を避けるように人々を戒められ、「隠れたことを見ておられる天の父が報いてくださる」と仰せになった。サムエル上1章13節「ハンナは心のうちで祈っていて、唇は動いていたが声は聞こえなかった」その結果19節「主は彼女を御心に留められた」。
詩編145編19節は「主を畏れる人々の願いはかなえられる」箴言10章24節は「神に従う人の願いはかなえられる」と説く。箴言8章13節は「主を畏れることは悪を憎むこと」とし、主を畏れる人と無縁な事柄を「傲慢、驕り、悪の道、暴言を吐く口」とする。これらを行う人の願いはかなえられない。
コヘレト12章13節は「全てに耳を傾けて得た結論」として「神を畏れ神の戒めを守れ」「それこそが人間の全て」と締め括る。8章12節では「神を畏れる人は畏れるからこそ幸福になる」と記し、箴言8章13節は「主を畏れることは悪を憎むこと」として、傲慢・驕り・悪の道・暴言を吐く口を戒める。
(注)別エントリー「試論:聖霊とは縁遠い人を140文字以内で」も参照のこと。
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救い主を預言する際ダビデとエリサベトは「わたしの主」と呼ぶ。救い主には人間として母親しか存在せず、マリアは救い主を「わたしの肉の肉」(創世記2章23節)と呼んで誇ることもできたが、しかし母から人々への伝言は、「万事この人の言う通りにしてください」(ヨハネ2章5節)まずこれである。
(注)別エントリー「試論:『わたしの主』と母マリアを140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ福音書は「信仰」を表現する際、他の福音書が用いるピスティスという語を用いず代わりにアレテイア(真理、まこと)という語を多用する。ヨハネにとって信仰とは、人の真心に対し真心で応じられる神なる主に向かって嘘偽りや裏表のない態度で接することに他ならず、これは当時の共通認識だった。
(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
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詩編12(11)編においてダビデは、隣人に嘘をついたり隣人を早口で欺いたり言行不一致状態だったりする人々ばかりの風潮を、「信仰のある人は消え去りました」(12編2節、新共同訳)と表す。ここで「信仰」と訳されるヘブライ語を、古代のギリシア語訳聖書はアレテイア(真理、まこと)と訳す。
(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
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古代よりヨハネ福音書には「信仰」を意味するギリシア語が登場しないことが知られていた。その替わりヨハネ福音書は「真理」を意味する語アレテイア(まこと=真、実、信、誠)を多用する。ヨハネ7章28節「わたしを遣わされた方は『真理である方(=御父)』だが、あなたたちはその方を知らない」。
(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
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ヨハネ18章38節「真理(アレテイア)とは何か」の答えをマルコ12章32節は「神は唯一で他に神はない」と記す。一ヨハネ5章6節と20節は、「真理」の名に該当するのは御父と御子と聖霊であると説く。ヨハネ10章30節「一つ」の意味を使徒言行録4章32節は「心」「思い」等々と説明する。
(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
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一ヨハネ5章は20節で「神の御子が来られ、私たちに真理である方を知る力を与えられました。私たちは真理である方の内に、またその御子イエス・キリストの内にいるのです」と記し、「この方こそ真理である神、永遠の命」と続け、御父と御子と聖霊(6節)の御三方を「真理」と呼び、唯一の神とする。
(注)別エントリー「試論:『御子に全て委ねられた』を140文字以内で」も参照のこと。
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