黙示録6章15節以下「地上の王や高官や千人隊長たちは洞穴や山の岩間に隠れ、山と岩に向かい『我々の上に覆い被さり玉座に座っておられる方の御顔と小羊の怒りから我々を匿え』と言った」マルコ13章26節「人の子が大いなる力と栄光を帯び天の雲に乗って来るのを見て、地上の全ての民は悲しむ」。
(注)別エントリー「試論:『人の子は来る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10725
(注)別エントリー「主の御降誕と古代イスラエルにおける洞穴」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4351
【追記】
ルカ23章30節は、御受難の日に主がエルサレムの婦人たちへ伝えられた御言葉を記している。それは黙示録6章16節の記述に対応する言い回しであって、12節以下の「第六の封印」と関連する記述とは、実は紀元七〇年のエルサレム滅亡に関する啓示であることが、ルカ23章30節との対比で分かる。
(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744
マルコ13章26節は「人の子は天の雲に乗って」と訳されるが、日本語の「乗る」に当たる動詞はギリシア語本文にはない。全能の神なる主は移動の際に乗り物は不要で「雲」は神の現存を象徴するに過ぎないが、『西遊記』が有名な日本では孫悟空の雲と変わらぬかの如き誤解を招いている可能性が大きい。
(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888
(注)別エントリー「イエス・キリストと天の雲」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/684
(注)別エントリー「試論:聖書の『見る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11440
主はマタイ10章23節で「人の子は来る」と仰せになり、「人の子の日」(ルカ17章22節)に言及されたが、黙示録6章17節は「神と小羊の怒りの大いなる日」と表現し、これらの啓示は紀元七〇年のエルサレム滅亡で実現した。支配者たちはイザヤ2章と黙示録6章の通り、洞穴からの逃亡を企てた。
(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514
(注)別エントリー「試論:『神の小羊』=『主の僕』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8876
主はルカ17章30節で「人の子が現れる日」に言及された。これは黙示録6章17節「神と小羊の怒りの大いなる日」と同じで「神」は御父である神、「人の子」「小羊」は主イエス・キリストである。「はげ鷹」ローマ帝国は繁栄の都エルサレムと神殿を、神の介在を疑い得ないほどに跡形もなく滅ぼした。
主はマタイ10章7節で「神の国が近づいた」と告げるよう仰せになったが、これと別に23節で「人の子」が来る日をほのめかされた。これはルカ17章22節「人の子の日」や黙示録6章17節「神と小羊の怒りの大いなる日」を指し、マルコ13章29節の通り、人々は悲惨な諸事件から主の来臨を悟る。
出エジプト記24章にモーセの一行が「神を見た」とあるが、神の御姿を実際に見たわけではなくその「足台」(「サファイアの敷石のようなもの」)を見たことによって、その上に必ずおられるはずの神を「見た」わけである。また同様に、雲や火や煙、雷鳴や稲妻、角笛の音なども神の現存を象徴していた。
主はルカ21章20節以下で(紀元七〇年の)エルサレム滅亡及びその前後にユダヤを襲う「大いなる艱難」(23節)を予告された。また「異邦人の庭」(黙示録11章2節)を持つエルサレム神殿がまだ存在する時期に黙示録の内容を啓示され、エルサレム滅亡後も教会は存続すると希望をお与えになった。