【問】ヨハネ20章のトマスのエピソードは「不信のトマス」などと呼ばれますがトマスだけ不在の時に御出現があったのだから無理もないのでは?
【答】古代のヘブライ人の「信仰(信じる)」とは《揺るぎない確信》を意味しました。主イエスも他の弟子たちも、トマスを見る視線は優しかったと思います。
(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書の『信じる』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
【問】「わたしは決して信じない」とは「一ミリたりとも信じない」「絶対に信じない」「わたしの信仰はゼロ」などの意味ですか。
【答】もしそうならトマスは他の弟子たちに別れを告げていたはずです。「決して信じない」とは「わたしは他の弟子たちのような納得には、どうしたって到達できない」です。
(注)別エントリー「ヨハネ20章25節『決して信じない』」も参照のこと。
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古代のヘブライ人は神と神の民との関係を「花婿と花嫁」に喩えた。信仰を夫婦間の愛情に喩えたわけである。夫婦間に「わたしはあなたに60%の愛情を捧げるけれど、別の人にも40%の愛情を捧げる」はあり得ない。従って聖書の中の《信仰》とは、「100%の愛情」つまり疑う余地のない確信である。
(注)別エントリー「試論:『主イエスこそ真の花婿』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「神に対する確信を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『わたしたちの確信』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7711
(注)別エントリー「『からし種一粒ほどの信仰』???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19278