ローマ1章は28節「してはならぬこと」32節「死に値する行い」(32節)に関し29節以下に列挙する。全ての不義と悪、貪欲、悪意、妬み、殺意、不和、詐欺、邪念、悪口、誹謗中傷、神を憎むこと、隣人を侮ること、高慢、大言壮語、悪だくみ、親不孝、御言葉の無視、不誠実、冷酷や無慈悲である。
(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
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(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982
(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427
(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
マタイ5章17節「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するため」同7章12節「人からしてもらいたいと思うことは何でも、あなたたちから人にしなさい。これこそが律法と預言者」ローマ13章9節「他にどんな掟があろうとも、隣人を自分のように愛することに要約されます」。
ガラテヤ6章2節「互いに重荷を担い合いなさい。それがキリストの律法を全うすることになる」ヨハネ13章34節「わたしがあなたたちを愛したように互いに愛し合いなさい」マタイ7章12節「人からしてもらいたいと思うことは何であれ、あなたから人にしなさい。これこそが、律法と預言者である」。
マタイ7章12節「人からしてもらいたいと思うことは何でもあなたたちから人にしなさい。これこそが律法と預言者である」ガラテヤ5章14節「律法全体は、隣人愛の掟の実行によって、全うされます」ローマ13章8節「人を愛する者は律法を全うしています」同10節「愛は律法を全うするものです」。
主イエス・キリストはマルコ12章における「最も重要な掟」の第一と第二とを統合され、ヨハネ13章34節で「新しい掟」そして「わたしの掟」(同14章15節)とされた。この掟は隣人愛の実践をもって、神への愛の実践とする(同節)。隣人愛の実行こそがキリストへの信仰をあかしするものとなる。
ヨハネ13章34節以下で主は「新しい掟」について宣言されたが、これこそエレミヤ31章31節の「新しい契約」で、同33節「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」に関して主はヨハネ14章とりわけ21節で説明され、愛の掟を守ることが神の民となるための条件である旨を宣言された。
(注)別エントリー「試論:預言解釈の基本を140文字以内で」も参照のこと。
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ローマ3章でパウロは、「信仰」「律法」という表現で実際には《イエス・キリストを信仰する人々にとっての新しい掟である愛の掟》と《イエスを認めぬ人々が律法とするモーセが与えた掟》とを比較した。人間を「義」とするのは、《律法の掟》の実行ではなく、信仰に基づく《愛の掟》の実行如何による。
レビ19章18節は有名な隣人愛の掟を教えるが、その対極の行為として17節は兄弟を心の中で憎むことを禁じる。ゼカリヤ7章10節は互いに災いを心の中で企むこと、8章17節は互いに心の中で悪を企むことを禁じ、相手の困った顔・悲しむ顔・苦しむ顔を見たいという悪意を抱いてはならぬと戒める。
(注)別エントリー「レビ記19章17節:理由のない悪意」も参照のこと。
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主はマタイ4章4節で、「人はパンだけで生きる者ではなく、神の口から出る全ての言葉によって生きる」と申命記8章3節を踏まえ宣言された。イザヤ1章は主の口による宣言(20節)として「あなたの罪が緋のようだとしても雪のように白くなれる」(18節)と説き、悪との決別を厳命する(16節)。
(注)別エントリー「試論:『御言葉と不可分のパン』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『主に聞き従うこと』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『すべて守る』を140文字以内で」も参照のこと。
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二テモテ3章でパウロは「終わりの時」の人々の姿を記した。自分本位で金銭を愛し、嘘をつき、神を畏れず嘲り、両親に従わず、恩知らずで、他人を侮り、情け容赦なく、強情で、中傷し、節度がなく、残酷で、善を行わず、裏切り、軽率かつ高慢、信仰を装いつつ実際は快楽を愛し、事実上は棄教している。
(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:二ペトロ2章の『偽教師』140文字以内で」も参照のこと。
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