試論:マタイ9章15節「婚礼」を140文字以内で

【問】「花婿」は主イエスを指し「婚礼の客」は使徒たちだと思いますが、「婚礼」って何?
【答】主イエスが使徒たちを介して世に蒔かれた福音の種が実を結んだ結果、忠実な弟子となった人々を、キリストが御自分の御許に迎え入れられることの比喩です。「花婿」にとっては、最大の喜びの時だからです。

(注)別エントリー「試論:マタイ9章15節『断食』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

【問】主イエスが「花婿」だとすると、「花嫁」に該当するのは誰ですか?
【答】ある特定の一個人ではなくて「神の民」(イエス・キリストの福音を受け入れて忠実な信者となった人々)の全体です。既にイザヤ(62章5節)は、神と「神の民」との関係を、「花婿」と「花嫁」との関係に喩えていました。

【問】主イエスの結婚歴の記述は福音書にないけれど、結婚しなかった理由は?
【答】イザヤ62章5節は神と神の民の関係を花婿と花嫁の関係に喩えます。主は、御自分が神である事実を花婿という表現で暗示され、洗礼者も主を花婿と呼びます。主は神の民全体の花婿で、特定の一女性の夫ではありません。

イザヤ62章5節は「神と神の民」の関係を「花婿と花嫁」の関係にたとえたが、ヨハネ3章29節で洗礼者が「花婿の介添人」を自称する場合、「花婿」が主イエス・キリストであるのは、いうまでもない。洗礼者は、「花婿」と「花嫁」を引き合わせるまでが自分の役割と心得て、30節の言葉を口にした。

古代のヘブライ人は神と神の民との関係を「花婿と花嫁」に喩えた。信仰を夫婦間の愛情に喩えたわけである。夫婦間に「わたしはあなたに60%の愛情を捧げるけれど、別の人にも40%の愛情を捧げる」はあり得ない。従って聖書の中の《信仰》とは、「100%の愛情」つまり疑う余地のない確信である。

(注)別エントリー「試論:『主イエスこそ真の花婿』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「神に対する確信を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5613

(注)別エントリー「試論:『わたしたちの確信』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「『からし種一粒ほどの信仰』???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19278