試論:マタイ9章15節「断食」を140文字以内で

【問】主イエスの御昇天後、弟子たちが断食した話はありません。
【答】申命記8章3節は「人は主の口から出る全ての言葉で生きる」と記しヨハネ1章1節は御子イエスを「言(神の御言葉)」と呼び、イエスは同6章48節で「パン」を称されましたが御受難後、弟子たちは「パン」の喪失に苦悩しました。

【追記】

【問】マタイ9章15節は主イエスを花婿、弟子たちを婚礼の客と呼びますが、「婚礼」って何?
【答】世に蒔かれた福音の種が実を結んでキリストの忠実な弟子となった人々を、来世であれこの世であれキリストが御自分の御許に迎え入れられることの比喩です。花婿にとっては、最大の喜びの時だからです。

イザヤ62章5節は「神と神の民」の関係を「花婿と花嫁」の関係にたとえたが、ヨハネ3章29節で洗礼者が「花婿の介添人」を自称する場合、「花婿」が主イエス・キリストであるのは、いうまでもない。洗礼者は、「花婿」と「花嫁」を引き合わせるまでが自分の役割と心得て、30節の言葉を口にした。

古代のイスラエルでは、婚礼の時に上質の酒を提供するのは花婿の責任と考えられていた(ヨハネ2章9節以下)。一方、当時は「神」と「神の民」の関係を《花婿》と《花嫁》の関係にたとえていた(イザヤ62章5節)。カナでのぶどう酒の奇跡で、主は御自分こそが真の《花婿》であるとほのめかされた。

ヨハネ3章29節の通りヘブライ人は神を花婿に、神の民を花嫁に喩えた。従ってマタイ22章8節以下の通り、婚宴とは神が神の民の中の相応しい人々を神の国に迎え入れ喜びを共にすることである。主イエスは御受難と御復活の間に新しい天・地・エルサレムを創造され、旧約の義人たちを迎え入れられた。

(注)別エントリー「試論:『聖書が実現するため』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17226

古代のヘブライ人は神と神の民との関係を「花婿と花嫁」に喩えた。信仰を夫婦間の愛情に喩えたわけである。夫婦間に「わたしはあなたに60%の愛情を捧げるけれど、別の人にも40%の愛情を捧げる」はあり得ない。従って聖書の中の《信仰》とは、「100%の愛情」つまり疑う余地のない確信である。

(注)別エントリー「試論:『主イエスこそ真の花婿』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7379

(注)別エントリー「神に対する確信を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5613

(注)別エントリー「試論:『わたしたちの確信』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7711

(注)別エントリー「『からし種一粒ほどの信仰』???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19278

マタイ22章は神の御前に立つためには「礼服」が不可欠と教える。詩編132編は9節で「正義を衣としてまとう」16節で「救いを衣としてまとう」と表現して「救い」すなわち神と共にある条件を、「正義」すなわち「神の義」(マタイ6章33節)とし、その具体例をコロサイ3章12節以下が教える。

(注)別エントリー「試論:マタイ22章『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6740

(注)別エントリー「試論:『人の行いに応じた報い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5743

(注)別エントリー「試論:『神の義とディカイオス』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8685

マタイ22章「礼服」に関連して、パウロはコロサイ3章で、キリストに結ばれていたいと望む人々が「着る」つまり身に着けるべき事柄に関してとりわけ10節以下で論じ、5節から9節では脱ぎ捨てるべきものも説く。身に着けるべきは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、そして愛だとパウロは説いた。

主はマタイ6章33節で「神の国と神の義を求めよ」と仰せになり、また同22章では神の国で神の御前に立つために不可欠な「神の義」を、「礼服」にたとえられた。この「礼服」すなわち「神の義」とは何であるかについて、パウロはコロサイ3章で、キリストの弟子が身に着けるべきものとして説明した。