主イエスはルカ20章44節で「ダビデが〔詩編の中で〕メシアを主と呼んだのに、なぜメシアがダビデの子(子孫)なのか」と問われた。大昔、ダビデの子孫から王権が離れることはないと預言された(サムエル下7章16節)ため、古代のユダヤ人は当然メシアもダビデの子孫の中から出るものと想定した。
(注)別エントリー「試論:『エリコのバルティマイ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12148
(注)別エントリー「聖書にはクリスマスの日付が載っていますか???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13267
【追記】
《御父である神、主》と《御子である神、主イエス》とは、詩編110編1節では御父は「主」、御子は「わが主」でありマタイ22章44節も御父は「主」、御子はダビデの言う「わたしの主」である。ルカ1章43節でエリサベトは詩編110編1節を踏まえ、マリアを「わたしの主のお母さま」と呼んだ。
(注)別エントリー「試論:『神の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
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聖母は「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)となられた方ながら、「わたしは主のはしため」(38節)と自称されたが、ペトロとヤコブは「神はへりくだる人に恵みをお与えになる」と書いた。「神の御独り子の母」となられた女性のへりくだりと恵み(ルカ1章28節)とは、いかばかりだろうか?
(注)別エントリー「試論:初代教会と箴言を140文字以内で」も参照のこと。
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聖母マリアは「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)となられた方でありながら、「わたしは主のはしため」(38節)と自称されるほど高慢心のかけらもない謙遜そのものの方であった。従って、高慢心との訣別こそが「聖母マリアへの真の信心」へと踏み出す最初の一歩であるのは、至極当然である。
(注)別エントリー「試論:『救い主の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
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