彼は家庭を持つ漁師で湖の対岸の異邦人とも交流がないほどだったが、大工の男に説得され、その弟子となり、師とともに湖上を歩き、師から一番弟子に指名された。一度は師を見捨てた彼を師は変わらず信頼し、師が去った後も教えを広めるために彼は世界を巡り、世界の都で一粒のからし種として殉教した。
(注)別エントリー「試論:『自分の十字架』とペトロを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12304
【追記】
福音書には主の職業はテクトーンとあるが、ホメロスの叙事詩ではテクトーンは船大工をも意味し、もしも主が腕の確かな職人として既に漁師の間で知られていたとすれば、故郷で生涯を終えることが多く同業者だけで集まりがちな漁師の中からすぐ四人の信頼を得て弟子とすることができたのも、道理である。
(注)別エントリー「試論:天の国と『人間をとる漁』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8963
主はマルコ4章で弟子たちの前で突風を静められて創造主としての権威の片鱗を示されたが、後にペトロだけは最後に沈みかけたものの湖の上を歩く体験をして主の権威に対する確信を強め、このペトロの確信がマタイ16章16節「あなたは生ける神の子キリスト(メシア)です」の信仰宣言へとつながった。
主イエスが湖の上をお歩きになった際、弟子たちの中でペトロが最初に自分も歩くと申し出たが、怖くなって沈みかけ、主に助けを求めた。主はペトロをお叱りになったが、すぐに手を伸ばし助けられた。失敗も多かったが、御言葉に真っ先に反応して忠実を示し続けるペトロに、主は御自分の羊を委ねられた。
主がペトロに「あなたは鶏が鳴くまでに三度わたしを知らないと言うであろう」と予告されたことはあまりにも有名である。しかしその前に、主はさらに先のことを見通すかのように、「あなたが(自分の痛手から)立ち直ったならば今度はあなたが仲間たちを力づけなさい」ともペトロに仰せになられていた。
ヨハネ1章42節はシモン・ペトロをヨハネの子とするが、マタイ16章17節はバルヨナ(ヨナの子)と呼ぶ。ヨナは鳩すなわち神の霊を意味し、主イエスはペトロを鳩の子と呼ぶことで《今のあなたの言葉は神の霊があなたに言わせたことである》という事柄をシモン本人及びその場にいた皆に示唆された。
ヨハネ21章15節はシモン・ペトロを「ヨハネの子」と呼ぶ。マタイ16章17節「バルヨナ」は通常「ヨナの子」と訳されるが福音書時代のヘブライ語でヨナは鳩を意味した。ただしシモン・ペトロの元々の性格が、ヨナ書最終章の預言者の姿(不満や怒りを隠せない)と同じだった可能性も否定できない。
マタイ16章17節「バルヨナ」の「ヨナ」は、福音書時代のヘブライ語では「鳩」を意味した。シモン・ペトロを「鳩(=神の霊。マタイ3章16節)の子」と呼ぶことで、主イエスは「あなたの今の言葉は神の霊があなたに言わせたことである」という事柄をシモン本人そしてその場にいた皆に示唆された。