主イエスはルカ14章27節で、弟子となる者は自分の十字架を背負い、従って来るべきだと仰せになった。初代教会時代、新しく信者になろうとする人々がペトロに「あなたにとっての『自分の十字架』とは何ですか?」と問うたなら、恐らく「鶏が鳴く前に三度主を知らないと言ったこと」と答えただろう。
(注)別エントリー「試論:ペトロの生涯を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
ガラテヤ5章24節や同6章14節は、「神の国と神の義」(マタイ6章33節)に相応しくない現世的な「肉の業」(ガラテヤ5章19節以下)と絶縁する決意や日々のそのための努力を、負うべき十字架にたとえた。マタイ6章12節の「負い目」とは、「肉の業」つまり人間の「過ち」(14節)を指す。
主はマタイ10章38節で、御自分に従いつつも当人が抱える良心の問題と向き合わない者を批判された。それだと「御言葉を聞くと喜んで受け入れるが当人に根がないので、御言葉のために艱難や迫害が起こるとすぐつまずく者」(13章20節〜21節)だからである。信仰は一時の熱意や高揚感ではない。
「十字架」に関しルカ9章23節は「日々」と記して日常との関連を示唆し「自分を捨て」と記して自分の諸欠点との関連を示唆する。二コリント11章28節「日々の厄介事や心配事」。「捨てるべき古い自分」は自分の諸欠点、「自分の十字架」は自分の諸欠点に伴う日常の労苦(厄介事、心配事)である。
(注)別エントリー「試論:『自分を捨てる』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『捨てる』べきものは何?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9194
ガラテヤ5章24節や同6章14節は、「神の国と神の義」(マタイ6章33節)に相応しくない現世的な「肉の業」(ガラテヤ5章19節以下)と絶縁する決意や日々のそのための努力を、負うべき十字架にたとえた。マタイ6章12節の「負い目」とは、「肉の業」つまり人間の「過ち」(14節)を指す。
主はマタイ6章12節で「われらが負債ある人を赦す如く、われらの負債を赦したまえ」と仰せになったが、同18章21節の「仲間を容赦しない家来のたとえ」で意味を詳しく御説明され、また35節は「あなたがた一人一人が心から兄弟を赦さないなら、天の御父もあなたがたに同じようになさる」と記す。
マタイ18章の「仲間を容赦しない家臣」のたとえで主は、「わたしがお前を憐れんだようにお前も仲間を憐れんでやるべきではなかったか」の言葉通り他人を容赦することこそ憐れみそのものであると説明され、一人一人が心から兄弟を容赦しないのならば天の御父も一人一人に同じくなさると警告なさった。
(注)別エントリー「試論:自分が裁かれないためにはを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5501
(注)別エントリー「試論:赦しの重要性を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5390
(注)別エントリー「試論:主の祈りと赦しを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5305
(注)別エントリー「試論:他人を赦すことを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5300
ヨハネ1章12節以下は「言(ことば)」つまり主イエス・キリストによって「神の子」とされた人々は本来、「肉の欲」と無縁であるべきとする。ガラテヤ5章24節は「肉の欲」と絶縁するという決意と日々の努力を十字架という比喩で表現し、19節以下は信者が避けるべき「肉の業」に関して列挙する。
新約聖書において十字架は比喩的に、当然「困難」「苦難」「試練」等の事柄を意味するが、同時にパウロがガラテヤ5章24節や6章14節で表現するように、「神の国と神の義」(マタイ6章33節)に相応しくない現世的な「肉の業」(ガラテヤ5章19節以下)と絶縁する決意や日々の努力を象徴する。