二テモテ4章8節は「主が来られるのをひたすら待ち望む人」と記すが、主はマタイ12章28節で「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば神の国はあなたたちのところに来ている」と教えられ、《神の御心が天に行われる通り地上でも行われる状態》の実現こそが、神の国の到来だと説明された。
【追記】
主はマタイ4章17節で「天の国は近づいた」6章10節で「御国が来ますように」さらに12章28節で「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば神の国はあなたたちのところに来ている」と教えられ、神の御心が天に行われる通り地上でも行われる状態そのものこそ神の国の到来だと説明された。
(注)別エントリー「試論:無千年王国説を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4675
マタイ福音書では「天の国は近づいた」と三度(3章2節、4章17節、10章7節)言われるが、6章10節(「主の祈り」)では「御国が来ますように」の次は「御心が行われますように」となる。だとすれば、「天の国は近づいた」の次に続く言葉は「天の父の御心が地の上で行われる時が来た」である。
主はルカ17章20節で「神の国は見える形では来ない」、22節で「人の子の日を弟子たちが見ることはない」と仰せになったが、アモス5章18節は「主の日を待ち望む者は災いだ。主の日は闇であって光ではない」と預言しており、「神の国の到来」と「主の日」とを混同すべきではないと、理解できる。
(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888
主はマタイ10章7節で「神の国が近づいた」と告げるよう仰せになったが、それと別に23節で「人の子」が来る日をほのめかされた。これはルカ17章22節「人の子の日」や黙示録6章17節「神と小羊の怒りの大いなる日」を指し、マタイ24章33節の通り、人々は悲惨な諸事件から主の来臨を悟る。
(注)別エントリー「試論:『人の子が現れる日』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8454
(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744