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試論:「あらゆる貪欲に対して」を140文字以内で

主イエスはルカ12章15節で、どのような種類の貪欲に対しても十分に目を光らせ、心を奪われてはならないと警告された。同16章13節「あなたたちは、神と富のどちらか一方にしか仕えることができない」マタイ13章22節「茨の間に落ちた種とは、御言葉を聞いても世の思い煩いや富の誘惑が〜」。

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
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【追記】

主イエスはマタイ19章24節で、あまりにも有名な「金持ちが天の国に入るよりも、ラクダが針の穴を通る方が、まだ容易である」の御言葉を仰せになった。これに関連して13章22節で次のように説明される。「御言葉を聞くには聞くが世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆い塞ぎ、実りには至らない」。

(注)別エントリー「試論:『針の穴』何のたとえ??を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはマルコ10章25節で「ラクダが針の穴を〜」と表現され金持ちが神の国に入ることの難しさを説明されたが、続く27節では神つまり御自分なら状況を変えられると約束された。主はルカ19章で実際ザアカイに「救いがこの家を訪れた」「人の子は失われた者を救うために来た」と仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『ラクダが針の穴を』??を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはルカ16章の「不正な管理人」のたとえで、私欲のためでなく隣人のために富を費やすならば救いが訪れると仰せになり、後に徴税人ザアカイがその実例となった。19章8節「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。誰かから何かをだまし取っていたならそれを四倍にして返します」。

(注)別エントリー「試論:憐れみは『上から目線』かを140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ19章8節でザアカイは主に「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また何かを誰かからだまし取っていたなら四倍にして返します」と約束した。マタイ5章7節の「憐れみ深い人は幸いである。その人は憐れみを受ける」という御言葉の通り、主は「今日この家に救いが訪れた」と宣言なさった。

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
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古代の都市は防衛や警備の必要上なるべく城壁を大規模で頑丈に造ったが、同じ理由から城壁の内外を往来する通用門は必要最小限の大きさに留めた。郊外の山上から見下ろすと、「長い城壁」と「所々に設置された城門」と「開門を待つ人々の長い行列」は、「長い針」と「針の穴」と「糸」のように見えた。

古代の都市は、防衛や警備の都合上、城壁の内外を往来する城門を狭く造った。大柄なラクダでは通れないため、より小柄なロバ等に隊商は荷を積み替える場合もあった。金持ちは無意識のうちに態度や心掛けが尊大になりがちなので、それを自覚して改めなければ「神の国」の門を通れないと主は警告された。

主イエスはマタイ7章15節で貪欲こそ偽預言者の特徴であると教えられた。ペトロも第二の手紙の2章で同様に、貪欲こそ偽教師の特徴であると教えた。偽預言者も偽教師も一般の信者が真面目に働く時間帯に美食を貪り、旅行・観光・娯楽施設と遊興三昧の日々を送り、神について考えるのは片手間である。

(注)別エントリー「試論:『迷信としての終末預言』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『真の預言者すらいない』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「旧約聖書と『偽教師』」も参照のこと。
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