【問】マタイ22章32節「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」の意味は?
【答】エレミヤ21章8節の通り、旧約の民にとって神なる主の御意向に従うことは「命の道」、主の御意向に逆らうことは「死の道」で、《神は御自分に逆らう者の神ではなく、御自分に忠実な者の神》という意味です。
【追記】
エゼキエル18章「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は仰せになる。彼が悪から立ち帰って生きることを喜ばないだろうか。お前たちが犯した全ての背きを投げ捨てて新しい心と霊を造り出せ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。
(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
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ルカ19章9節以下「今日、救いがこの家を訪れた。人の子は、失われたものを捜して救うために来た」二ペトロ3章15節「わたしたちの主の忍耐深さを救いと考えなさい」同9節「主は救いの約束を遅らせているのではなく、一人も滅びずに皆が悔い改めるように、あなたたちのために忍耐されています」。
(注)別エントリー「『罪人を招く』」も参照のこと。
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【問】ヨハネ8章51節「わたしの言葉を守れば決して死ぬことがない」の意味は?
【答】マタイ7章12節のキリストの律法(あなたが他の人にしてもらいたいことを、あなたから他の人にしなさい)を忠実に実行するならマタイ25章の最後の審判で永遠の命にあずかり天国の福楽に達するという意味です。
(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスのファリサイ派批判で最も多いのはマタイ23章3節の通り「建前は立派でも中身は〜」だが、神殿の有力者たちの仲間であるサドカイ派は、復活を否定するなど、主イエスとは建前からして違った。来世について考えることをしない彼らはおのずと現世志向であり、既得権益の維持に汲々としていた。
主はヨハネ3章3節で「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることができない」と仰せになられた。エフェソ4章31節以下では無慈悲・憤り・怒り・わめき・そしりなどの全てを一切の悪意と共に捨てるよう勧め、互いに親切にし合い、憐れみの心で接し合い、またキリストに倣い、赦し合うよう勧める。
神の国に入るためには「神の義」が不可欠であることを主は「礼服」という比喩で御説明された。コロサイ3章では「着る」べきものは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛と挙げる。マタイ11章で主は「わたしは柔和で謙遜な者だから」(29節)「わたしの荷は軽い」(30節)などと仰せになった。