「罪人を招く」

マタイ9章13節「わたしが来た目的は、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」ホセア6章1節〜2節「さあ、わたしたちは主の御許に帰ろう。主はわたしたちの傷を覆ってくださり、いやしてくださる。主はわたしたちを立ち上がらせ命を与えてくださる。わたしたちは主の御前で生きる」。

主がマタイ9章13節で「わたしが求めるのは憐れみであり『いけにえ』ではない」とホセア6章6節に言及されてファリサイ派の人々に学ばせたかった「意味」という事柄の答えは、ホセア6章3節「主は曙の光のように必ず現われて、春に降り注ぎ大地を潤す雨のようにわたしたちを訪れて下さる」である。

主はマタイ福音書で「わたしが求めるのはあわれみであって犠牲(いけにえ)ではない」(ホセア6章6節)と繰り返されたが同節は「神を知ることであって焼き尽くす献(ささ)げ物ではない」と続く。「神を知る」を一ヨハネ2章3節は「神の掟(愛の掟。ヨハネ15章12節等)を守る」ことと説明する。

(注)別エントリー「試論:『神の御前で安心できる』を140文字以内で」も参照のこと。
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今、あなたの神、主があなたに求めておられることとは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてその全ての導きに従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸せになることではないか。(申命記10章12節〜13節)

ミカ6章8節「何が善であって、主が何をあなたたちに求めておられるかは、あなたたちには既に告げられている。それは神の義を行い、憐れみの業を愛し、へりくだり神と共に歩むこと」ホセア6章6節「わたしが求めるものは『いけにえ』ではなく憐れみであり、焼き尽くす献げ物ではなく神を知ること」。

洗礼者ヨハネは人々に「悔い改めよ。天の国は近づいた」と訴えたが、ルカ1章17節では洗礼者が担うことになる重大な使命として、《主に逆らう者に「正しい人(最後の審判で永遠の命が確約されている人)」としての分別を持たせるための準備をする》ことが、天使によって父ザカリヤに予告されている。

一ペトロ2章1節は「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」を捨てるよう要請し、エフェソ4章31節は捨てるべき事柄を「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなど全てを一切の悪意とともに」とし、コロサイ3章8節も同様に「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉」を捨てることを要請する。

(注)別エントリー「試論:『捨てる』べきものは何?を140文字以内で」も参照のこと。
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エゼキエル18章「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は仰せになる。彼が悪から立ち帰って生きることを喜ばないだろうか。お前たちが犯した全ての背きを投げ捨てて新しい心と霊を造り出せ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

キリスト教の歴史上「救われる者と救われない者とは神に予め定められている」という主張が存在したが、ならば神はなぜエゼキエル18章32節で「お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」と仰せになったのだろうか。二コリント5章14節「キリストは全ての人のために亡くなられた」。

(注)別エントリー「試論:救われる者は少ないか??を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
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主イエスはルカ15章7節で「悔い改める必要のない九十九人の義人よりも、悔い改めている一人の罪人のことを天は大いに喜ぶ」と仰せになり、マタイ18章14節ではエゼキエル18章32節「わたしは誰の死も喜ばない」と同様に、天の御父は悪人の滅亡よりも悪人の回心を喜ばれることを再確認された。

(注)別エントリー「試論:『悔い改める一人の罪人』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ9章31節には「神は罪人の言うことなどお聞きにならないとわたしたちは承知している」という言葉が記されてはいる。罪人が良からぬ企みを実行する前に成功を神に願い求めても、神が聞き入れるわけがないが、罪人が罪人であることを止めて回心したいと神に願う時は、神は喜んで聞き入れられる。

(注)別エントリー「試論:『聞き入れられる願い事』を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ23章40節以下で主の隣の十字架につけられた盗賊は最後に神への畏れを知り、自分の今の惨めな境遇は全て自業自得だが神には罪はなく神の御心に適う願いなら聞き入れられると確信し、自分の隣にいるのは神そのものであると信じて直接それを伝えた。彼の信仰告白に主は最大の幸福を御約束された。

(注)別エントリー「『ぶどう園の労働者』実例を140文字以内で」も参照のこと。
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