古代イスラエルの民にとって神なる主は「わたしたちの父」(イザヤ63章16節)だった。民の「永遠の父」である救い主は嬰児として生まれた。本来、神の御独り子に人間が養父とはいえ父として接するのは本末転倒である。しかし夢に現れる主の天使の指示と妻の存在に強められヨセフは任務を全うした。
(注)別エントリー「試論:『義人』ヨセフを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の養父』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
エリヤは王妃イゼベルに命を狙われていると知り、使命を放棄してホレブ山に逃げ、そこで天使に助けられた。ヨセフはヘロデ王がイエスの命を狙っていると知り幼子と幼子の母を連れてエジプトへ逃れた。天使はヨセフの夢に現れるという形で助けたものの第一義的に幼子を守ったのはヨセフとマリアである。
(注)別エントリー「試論:エリヤとヨセフを140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ18章10節で、人間と神との連絡を行う天使の存在に言及され、たとえ幼子が言語や思考や体力や行動の面でおぼつかない存在であっても、幼子の非力を侮り良からぬ行動に出る者については全てを天使が逐一、神の御前で報告し、神は全てを御存知であると仰せになった(マタイ6章6節参照)。
(注)別エントリー「試論:『他人の弱みに乗じない』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『無垢をリスペクトする』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ福音書のギリシア語本文はヨセフをディカイオス(1章19節)と呼ぶが、ディカイオスは最後の審判で天国の福楽を確約されている人(25章37節)を意味し、ヨセフがもともと天の国にいてもおかしくないほどに無垢な(創世記6章9節)底抜けの大善人で天使のような人であったことを示唆する。
(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
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