試論:「神に由来する知恵」を140文字以内で

ヤコブ3章15節以下では、混乱やあらゆる悪い行いがあるところには、《神に由来する知恵》ではない知恵つまり悪魔から出た「知恵」が働くと記す。聞けば聞くほど読めば読むほど考えが混乱して来る言説に出会った場合には、それが本当に神に由来する知恵なのかどうか極めて慎重に吟味する必要がある。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『福音書から逃げ回る人』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

パウロは一コリント1章で主イエス・キリストを「神の知恵」と呼び(30節)、また「神の力」とも呼ぶ(24節)。主イエス・キリスト御自身もルカ11章49節では「神の知恵もこう言っている」と仰せになったが、続く内容はマタイ23章34節と同じでありマタイでは主イエス御自身の御意向である。

一ヨハネ4章2節とヨハネ1章14節を照合すると「惑わす霊」の特徴は、主イエスが公生活中に仰せになった「主の御言葉」の内容(掟や戒め)に頑として触れようとしない点で、キリスト不在のキリスト教と呼ぶべきものへと信仰を換骨奪胎し、信者を福音書の主の御言葉から遠ざけることこそ目的である。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)である神』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はルカ6章46節で「あなたたちはわたしのことを『主よ、主よ』と呼んでおきながらどうしてわたしの言うことを行わないのか」と仰せになった。さらに次節以下では「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞きながら聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている」とお教えになった。

御受難の少し前、主イエスは律法学者の問い(「最も重要な掟はどれか」)に、第一が神への愛で第二が隣人愛とお答えになり、「律法と預言者」という表現で旧約聖書全体が二つの愛の掟に要約されると仰せになったが、山上の説教では(マタイ7章12節)、より実践的な表現で「愛の掟」を御説明された。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
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「人を惑わす霊」は一ヨハネ4章6節に登場し、3節の「反キリストの霊」「イエスのことを公に言い表さない霊」と同じだが、4節の「偽預言者たち」を指している。「わたしたちから去って行った」「世のことを話す」「世は彼らに耳を傾ける」「キリストの教えにとどまろうとしない」などの特徴を持つ。

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかけ、「彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にする」(3節)「昼間から享楽に耽るのを楽しみにする」(13節)「強欲」(14節)等と表現する。一般の信者が真面目に働いている時間帯に、連日のように臆面もなく美食を貪る者こそが偽教師である。

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかける。彼らは「滅びをもたらす異端を持ち込み、主を拒む」(1節)、「欲が深く虚言で人々を食い物にする」(3節)、「厚かましく、わがまま」(10節)「昼間から歓楽にふけるのを愉しみとする」(13節)「無意味な大言壮語」(18節)等の特徴を持つ。