ガラテヤ5章はヘブライ人特有の「肉と霊」の対比を用い、人間に由来する事柄を「肉」(創世記6章12節)、神に由来する事柄を「霊」と表現する。一ヨハネ4章16節「神は愛です」の具体的内容を、ガラテヤ5章22節以下では「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」と記した。
(注)別エントリー「試論:『肉と霊』の対比を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『言は肉となって』???を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
一ヨハネ4章8節、16節「神は愛です」同5章3節「神を愛することとは神の掟を守ることですが、神の掟は、荷が重いものではありません」マタイ7章12節「あなたたちは、自分が他人からしてもらいたいことならどんなことであれ、自分の方から他人にしなさい。これこそが律法であり預言者である」。
(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
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一コリント9章21節「わたしは神の律法を持たないわけではなくキリストの律法に従っている」ヨハネ13章34節「わたしがあなたたちを愛したように互いに愛し合いなさい」マタイ7章12節「人からしてもらいたいと思うことは、何であれ、あなたから人にしなさい。これこそが律法と預言者である」。
ガラテヤ6章2節「互いに重荷を担い合いなさい。それがキリストの律法を全うすることになる」ヨハネ13章34節「わたしがあなたたちを愛したように互いに愛し合いなさい」マタイ7章12節「人からしてもらいたいと思うことは何であれ、あなたから人にしなさい。これこそが、律法と預言者である」。
マタイ7章12節「人からしてもらいたいと思うことは何でもあなたたちから人にしなさい。これこそが律法と預言者である」ガラテヤ5章14節「律法全体は、隣人愛の掟の実行によって、全うされます」ローマ13章8節「人を愛する者は律法を全うしています」同10節「愛は律法を全うするものです」。
マタイ5章17節「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するため」同7章12節「人からしてもらいたいと思うことは何でも、あなたたちから人にしなさい。これこそが律法と預言者」ローマ13章9節「他にどんな掟があろうとも、隣人を自分のように愛することに要約されます」。
(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
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(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
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主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちが他人からしてもらいたいと思うことは全て、あなたたちから他人にしなさい」と《愛の掟》を教えられて、「これこそ律法と預言者」と宣言された。これをパウロも「キリストの律法」(一コリント9章21節、ガラテヤ6章2節)と呼びモーセの律法と対比した。