試論:「他言しないよう命じる」を140文字以内で

主イエスは、その宣教生活において特に初期は、さまざまな癒しの業を行われた後で相手に「他言しないように」と命じられることが多かった。恐らく「天に上げられる時期が近づき、エルサレムに向かう決意を固められた」(ルカ9章51節)辺りの時期から、「他言しないように」とは口にされなくなった。

(注)別エントリー「試論:『重い皮膚病の治癒』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13727

【追記】

主は特にガリラヤの宣教生活の初めの頃には、超自然的な「いやし」の業を行われた際、このことを他言しないようにと相手に念を押されることがしばしばだった。しかし御受難を前にエルサレム入城後には、主は神殿の境内(エルサレムの「ど真ん中」)で目や足の不自由な人々をいっせいに回復させられた。

マタイ21章14節には主が神殿の境内で目や足の不自由な人々をいやされたとあるが、サムエル下5章8節の故事により目や足の不自由な人々は神殿に入ることを禁じられていた。神殿の人々は目や足の不自由な人々に警告を発したはずだが、主のいやしが瞬時であったためか、神殿側もなすすべがなかった。

ダビデの故事(サムエル下5章8節)によりエルサレム神殿では目や足の不自由な人々の立ち入りが制限されていた。それに対して主は、あえて神殿に目や足の不自由な人々を招き入れて奇跡的な治癒を行われ(マタイ21章14節以下)それをもって「祈りの家」(同13節)のあるべき姿をお示しになった。

サムエル下5章8節の故事に従い、エルサレム神殿は目や足の不自由な人々が入ることを制限していた。しかし主イエスは「人間の言い伝え」(マルコ7章)に関係なく、神殿で目や足の不自由な人々に癒しの奇跡を行われた(マタイ21章14節)。これらの人々はルカ14章21節でも同様に招かれている。

(注)別エントリー「聖書における『いやし』をどう解釈するか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/2420