「しるし」は何のため、誰のためなのか

主イエスはヨハネ4章48節で「あなたたちはしるしや不思議な業を見なければ決して信じない」と仰せになった。ただ王の役人には悪意がなく、その息子は癒され、その家族はイエスを信じた。イエスの敵たちは、何度イエスが「しるし」を行われても、ますます敵意と悪意を募らせ、イエスに挑戦し続けた。

【問】なぜ主イエスは、「いやし」の業をマタイ4章23節のように行われたのですか?
【答】それらの「しるし」を行うことによって、御自身こそが旧約聖書の預言者たちが語っている救い主であると人々に知らせるためで、洗礼者は「しるし」を行うことが一度もありませんでした(ヨハネ10章41節)。

【問】マタイ11章で洗礼者が自分の弟子たちを主イエスの許に送った意図とは?
【答】洗礼者は己の使命を「花婿」と「花嫁」を引き合わせることと心得ていましたが、彼の弟子の一部はイエスの活動をライバル視していたため、彼は弟子たちに「しるしを行う方こそ従うべきメシア」と教えようとしました。

主イエスはマタイ11章14節で、洗礼者ヨハネが預言者マラキのいうエリヤだと教えられたが、ヨハネ1章21節で洗礼者は一度それを否定した。当時の人々は最初にしるしで判断しようとした(マタイ12章38節)が、洗礼者にはエリヤと同じしるしを行う意図はない(ヨハネ10章41節)からである。

ルカ1章66節は、洗礼者ヨハネの誕生に際し、人々が「この子はどんな人になるのだろうか」と言ったと記す。おおよそ三十年後、主イエスはマタイ11章11節で「洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」と仰せになった。しかしヨハネ10章41節は洗礼者が何のしるしも行わずに世を去ったと記す。

主イエスはマタイ9章35節の通り「町や村を残らず回って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気や患いを癒やされた」。洗礼者はアンデレとヨハネとを主イエスに導いた際(ヨハネ1章)等を除けば、基本的には「ヨルダン川の向こう側」にとどまり、しるしは行わなかった(同10章41節)。

マルコ8章11節でファリサイ派の人々は主イエスを試そうと「天からのしるし」を求めたのに対し、主は「なぜ『時代のしるし』を悟ることができないのか」とマタイ16章3節で答えられた。「時代のしるし」とは、預言されていた救い主による癒し(イザヤ35章5節以下)と、主によるその実践である。

福音書の時代、ユダヤ世界の人々の前に、まず洗礼者ヨハネが現れ、続いて主イエスが活動を開始された。当時の人々は誰しも、一度は「どちらがメシアか」と疑問を持ったはずだが、その答えはヨハネ10章41節の通りしるしを行わない方がマラキが預言した先駆者、しるしを行われる御方がメシアである。

主イエスはパンを増やし四千人の群衆に食べ物を与えるという奇跡を行われた。類似の奇跡は列王下4章42節以下で「神の人」預言者エリシャも行っていた。主イエスの神の御独り子たる本領は「生まれつき目が見えなかった人の視力を回復させた」(ヨハネ9章32節、イザヤ35章5節)時に発揮された。

主イエスはヨハネ12章30節で、御父の天からの声(28節)が聴こえたのは、イエス御自身のためではなく、人々が信じて救いに入るためだと仰せになった。主はラザロの死(11章15節)と復活(42節)の際も、人々が信じて救いに入るためにこのようなことが起きるという旨を仰せになられている。

主イエスはヨハネ12章28節で、「父よ、御名の栄光を現して下さい」と仰せになり、すると天から声が聞こえた。これは申命記5章22節以下を彷彿とさせ人々はそれを思い起こしたなら慄然としたはずである。ただ群衆の反応は「雷が鳴った」「天使がこの人に話しかけた」等で、回心には至らなかった。

一ペトロ2章の冒頭では、霊的な成長とは悪意・偽り・偽善・ねたみ・悪口を捨て去ることと示唆し、使徒言行録8章では、魔術師シモンが聖霊のしるしを金で買おうとしてペトロに非難された。主イエスもマタイ7章22節以下で預言や奇跡や悪霊を追い出すことより悪を行わないことが重要と仰せになった。