道・真理・命

「道」とは全ての人が生きる上で辿るべき道筋(道理・規範)でイエスがその模範であること、「真理」とは人が信仰・礼拝すべき三位一体の唯一の神を指し御父・御子・聖霊の間に矛盾がないこと、「命」とは幸福・安堵・充足等の人を生かすものの全てで人間にそれを授ける源は唯一の神ということを指す。

【追記】

主が「わたしは道」(ヨハネ14章6節)と仰せになる場合、自身が御父へ通じる唯一無二の存在であると示唆するだけではなく、日本語の「人としての道から外れる」と同様に、誰もがそこを通って進んで行くべき人間としての道筋つまり御父である神の御前における模範(同13章15節)の意味をも含む。

主はヨハネ13章34節で「互いに愛し合いなさい」と「愛の掟」をお授けになったが、「わたしがあなたがたを愛したように」と付け加えられることによって、御自身を模範(全人類のあるべき姿)としてお示しになった。「言(ことば)」である主が「肉」つまり人間となられた意義の一つがここにあった。

一ヨハネ5章は20節で「神の御子が来られ、私たちに真理である方を知る力を与えられました。私たちは真理である方の内に、またその御子イエス・キリストの内にいるのです」と記し、「この方こそ真理である神、永遠の命」と続け、御父と御子と聖霊(6節)の御三方を「真理」と呼び、唯一の神とする。

「真理(ギリシア語本文でアレテイア)とは何か」(ヨハネ18章38節)の答えをマルコ12章32節は「神は唯一で他に神はない」ことがアレテイアとし、主はこれを「適切な答え」とされた(34節)。ヨハネ14章6節「わたしこそが道、真理、命」10章30節「わたしと父とは唯一のものである」。

エレミヤ10章10節は「主は真理の神」と記すがこの章では、自分では言葉を話せない偶像の神々と違い、イスラエルの神である主は御自ら、御言葉を発せられて真正な御教えを御自分の民にお話しになられる(申命記5章22節以下)という事柄を要約する表現として、「真理〔の神〕」が用いられている。

申命記30章15節には「わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く」とある。この章で「命」は、「祝福」(1節)「幸い」(5節)「恵み」「実り」「繁栄」「喜び」(9節)等の総称で、20節は「あなたの神、主を愛し、御声を聞き、付き従いなさい。それこそあなたの命である」と説く。

箴言15章4節では赦しを与える言葉を命の木と記し、相手に安堵と幸福を与える言葉を「命」と表現した。創世記50章では父の死を機に復讐されるのではないかと恐れる兄たちに対し、ヨセフは赦しを再確認する言葉で安堵させた。ヨハネ6章68節は主イエスを「永遠の命の言葉を持つ」と表現している。

有名な「命の木」という表現は創世記と黙示録に登場し、主なる神が人間のために準備された何物かを指す言葉だが、箴言3章18節では知恵に関連してこの表現を用いて、それが幸福の源であると示す。11章30節「神に従う人の結ぶ実」13章12節「叶えられた望み」15章4節「癒しを与える言葉」。

ヨハネ1章4節は「言(ことば)の内に命があり、命は人間を照らす光」と記す。これはヨブ33章27節以下「わたしは罪を犯し正義を曲げたが、すべきでなかった。神はわたしの魂を滅びから救われ、命を得てわたしは光を仰ぐ」を踏まえており、主が御言葉で人間の魂を滅びから救われることを宣言する。