【問】マルコ10章30節前後は「わたしと福音のため全てを捨て迫害を受けた者は百倍の報いを受ける」と読めますが、歴史上そんな人はいましたか?
【答】「わたしと福音のため全てを捨て迫害まで受けた者は、この世で百倍の報いを受けなかったとしても、来世では永遠の命を受ける」と解釈すべきです。
【追記】
【問】この問題の部分と類似する表現は、新約聖書の他の箇所にありますか?
【答】マタイ12章32節「聖霊を冒涜する者はこの世でも来世でも赦されない」。同じくマルコ10章30節も「この世でも来世でも百倍の報いを受けなかったとしても〔それをはるかに超える恵みである〕、永遠の命を受ける」。
【問】なぜ主イエスは、この箇所で「報い」について、唐突に「百倍」などと大袈裟な表現を用いられたのですか?
【答】ヨブ記の最終章には試練を受けたヨブが最後に友人たちのために祈った後、主はヨブの財産を二倍にして返された、という有名なエピソードがあり、それを踏まえてのものと考えられます。
主はマタイ12章32節で、御自分のことを単に人間的な事柄で嘲る人の悪口(同11章19節「大食漢で大酒呑み、徴税人や罪人の仲間」)は許容範囲内だが、神の霊つまり聖霊によって悪霊を追い出した事実を「ベルゼブルによって悪霊を追い出した」と咎めることは絶対に許容されないと、仰せになった。
マタイ9章32節以下のいやしのエピソード以降、ファリサイ派の人々は「彼は悪霊のかしらの力で悪霊を追い出している」と主イエスを中傷し続けた。主はマタイ12章32節で、聖霊によって悪霊を追い出した事実を「ベルゼブルによって追い出した」と咎めることは絶対に許容されない、と仰せになった。
主イエスは「ベルゼブル論争」の際、マタイ12章28節では神の霊すなわち聖霊によって悪霊を追い出したと仰せになったが、ルカ11章20節では「神の指によって」と表現されている。「神の指」とは神の御力や御業を表す(出エジプト8章15節、同31章18節、申命記9章10節、詩編8編4節)。
主はマルコ3章28節以下で、御自身の人間(人の子)的側面(ガリラヤ人、大工等)を云々する人々には酌量の余地がまだ残されるが、御自身の神としての権威(聖霊によって悪霊を追い出した事実)を目の当りにしながらそれになお難癖をつける人については、最早決して酌量の余地はないと警告なさった。
(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888