旧約聖書は、神の御言葉(御教え)をしばしば「火」にたとえた。繰り返しの火による精錬が金属から不純物を取り除いていくように、神の清い御言葉(御教え)に繰り返し接することにより人間の心も清いものとなるからである。一ペトロ1章7節では、信仰上の試練をまさに火による精錬と関連付けている。
【追記】
エレミヤ5章14節「わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける。それは火となり、この民を薪として焼き尽くす」同20章9節「主の名を口にすまいと思っても、主の御言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて火のように燃え上がります」同23章29節「わたしの言葉は、火に似ていないか」。
(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844
(注)別エントリー「試論:『聖霊と火』の『火』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5770
(注)別エントリー「試論:マタイ3章の二つの『火』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5795
ルカ12章49節「わたしは地上に火を投ずるために来た。既にその火が燃えていることをどんなに願っているか」同24章32節「主が道でお話しされた時や聖書を説明されていた時、われわれの心は燃えていたではないか」エレミヤ23章29節「わたしの言葉は火のようではないか、と主は仰せになる」。
主は「火」「剣」を人々にもたらすと仰せになったが、両者とも御言葉の比喩である。御言葉は心を燃やし(ルカ24章32節)心に刺さる(詩編55編22(21)節等参照。エフェソ6章17節)。黙示録も1章16節等で御言葉を剣に喩え11章5節では御言葉を火に喩えた(エレミヤ5章14節参照)。