ルカ24章47節

御復活の主はルカ24章47節で「罪の赦しをもたらす悔い改めがあらゆる国で宣べ伝えられる」と仰せになったが、3章3節では洗礼者が罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えたと記し、のみならず同8節では悔い改めにふさわしい実を結べと命じており、10節以下は具体的な指示をも記す。

主イエスはヨハネ15章4節で「わたしにつながっていなさい」と仰せになり、5節で「わたしにつながっていなければ、あなたたちは、何の実を結ぶことも、できない」、6節で「わたしにつながっていない人は枯れた状態で外に投げ捨てられ、集められて火に投げ入れられ焼かれてしまう」と、続けられた。

主はヨハネ15章2節で「わたしにつながっていても実を結ばぬ枝は全て御父が取り除かれ、実を結ぶ枝は全て御父がさらに豊かに実るよう手入れをなさる」と仰せになった。ヤコブ3章でも17節と18節に「実」が登場し、知恵・純真・温和・優しさ・従順・憐れみ・義・平和が特徴であることを説明する。

(注)別エントリー「試論:『新たに生まれなければ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9816

主イエスはヨハネ15章2節で「わたしにつながっていても実を結ばぬ枝は全て御父が取り除かれるが、実を結ぶ枝は全て御父がさらに豊かに実るように手入れをなさる」と仰せになり、ガラテヤ5章22節以下でパウロは「実」の具体例を、愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・柔和・節制と列挙した。

神の霊つまり聖霊が人間に賜るものをガラテヤ5章は愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制と説く。主はマタイ6章33節で「神の義」を求めよと仰せになり、同22章でそれを「礼服」にたとえられる。コロサイ3章では、着るべきものとは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛と説く。

マタイ22章は神の御前に立つためには「礼服」が不可欠と教える。詩編132編は9節で「正義を衣としてまとう」16節で「救いを衣としてまとう」と表現して「救い」すなわち神と共にある条件を、「正義」すなわち「神の義」(マタイ6章33節)とし、その具体例をコロサイ3章12節以下が教える。

(注)別エントリー「試論:マタイ22章『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『人の行いに応じた報い』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の義とディカイオス』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8685

マタイ22章「礼服」に関連して、パウロはコロサイ3章で、キリストに結ばれていたいと望む人々が「着る」つまり身に着けるべき事柄に関してとりわけ10節以下で論じ、5節から9節では脱ぎ捨てるべきものも説く。身に着けるべきは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、そして愛だとパウロは説いた。

主はマタイ6章33節で「神の国と神の義を求めよ」と仰せになり、また同22章では神の国で神の御前に立つために不可欠な「神の義」を、「礼服」にたとえられた。この「礼服」すなわち「神の義」とは何であるかについて、パウロはコロサイ3章で、キリストの弟子が身に着けるべきものとして説明した。