試論:「天使と幼子」を140文字以内で

主はマタイ18章10節で、人間と神との連絡を行う天使の存在に言及され、たとえ幼子が言語や思考や体力や行動の面でおぼつかない存在であっても、幼子の非力を侮り良からぬ行動に出る者については全てを天使が逐一、神の御前で報告し、神は全てを御存知であると仰せになった(マタイ6章6節参照)。

(注)別エントリー「試論:『他人の弱みに乗じない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7371

(注)別エントリー「試論:『無垢をリスペクトする』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7325

【追記】

主イエスはマタイ6章で、施し・祈り・断食は人目に付かないようにと命じられ、天の御父である神は全て御存知だと仰せになった。箴言15章3節「どこでも主の御目は注がれ善人も悪人も見ておられる」詩編90編8節「〔主よ、〕あなたはわたしたちの罪を御前に、隠れた罪を御顔の光の中に置かれる」。

(注)別エントリー「マタイ6章『祈る時には』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9168

(注)別エントリー「試論;『偽善者と演技』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8211

主はマタイ10章26節で、「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」と仰せになった。神の御前で隠し事はできないという同じ事柄をローマ2章16節も説くが、後者は「人々の隠れた事柄を神がキリスト・イエスを通して裁かれる日」と関連付けている。

(注)別エントリー「試論:隠し事と『裸』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6711