試論:「不幸だ」を140文字以内で

主イエスはルカ10章16節で「わたしを拒む者はわたしを遣わされた方を拒む」と仰せになり、その意味でコラジン・ベトサイダ・カファルナウムを「不幸」と嘆かれた。同様に主は11章ではファリサイ派の人々と律法学者たちをも「不幸」と呼ばれ、19章41節以下では都エルサレムのために泣かれた。

(注)別エントリー「試論:エゼキエル18章を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

マタイ5章7節「憐れみ深い人は幸いである。その人は神からの憐れみを受ける」は、箴言11章17節の前半「憐れみ深い人は、その善行によって、自分自身の霊魂にも良いものをもたらす」の答えである。ちなみに、箴言の同じ節の後半は「憐れみのない人は、その行いが回り回って、自分自身が苦しむ」。

(注)別エントリー「試論:箴言11章17節を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはルカ19章41節以下で心を入れ替えようとしない都の人々を嘆いて泣かれた。神は、全ての人を救われて真理(=主イエス御自身。ヨハネ14章6節)を知るようになることを望んでおられる(一テモテ2章4節)にもかかわらず、神殿を拠点とする宗教指導者たちの思いは正反対だからであった。

(注)別エントリー「試論:『都のために泣かれた主』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ15章10節「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたたちもまたわたしの掟を守るなら、それによって、わたしの愛にとどまっている」マタイ7章21節「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るのではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入る」。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ7章12節「あなたたちが他の人からしてもらいたいと思うことはなんでも、あなたから他の人にしなさい。これこそが律法であり、預言者の教えである」ヨハネ13章35節「あなたたちが互いを尊重し敬意を払い合うならば、その姿を見て皆はあなたたちがわたしの弟子であることを認めるだろう」。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『行った意味が分かるか』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ5章9節「平和を実現する人」の「平和」とは、福音書の時代の人々にとっては単に戦争のない(終わった)状態を意味する以外に個々の健康や幸福・繁栄、人間関係の協調・一致や発展、社会や国家の安寧、暴動や反乱のない状態、心の(霊的な)安定など、物事が好転している状況の総称でもあった。

(注)別エントリー「試論:『柔和な人は幸いである』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『心の清い人は神を見る』を140文字以内で」も参照のこと。
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今、あなたの神、主があなたに求めておられることとは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてその全ての導きに従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸せになることではないか。(申命記10章12節〜13節)

ミカ6章8節「何が善であって、主が何をあなたたちに求めておられるかは、あなたたちには既に告げられている。それは神の義を行い、憐れみの業を愛し、へりくだり神と共に歩むこと」ホセア6章6節「わたしが求めるものは『いけにえ』ではなく憐れみであり、焼き尽くす献げ物ではなく神を知ること」。

(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ福音書で「わたしが求めるのはあわれみであって犠牲(いけにえ)ではない」(ホセア6章6節)と繰り返されたが同節は「神を知ることであって焼き尽くす献(ささ)げ物ではない」と続く。「神を知る」を一ヨハネ2章3節は「神の掟(愛の掟。ヨハネ15章12節等)を守る」ことと説明する。

(注)別エントリー「試論:『神を知る』?を140文字以内で」も参照のこと。
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