ルカ12章36節以下「婚宴帰りの主人が戸を叩く時、目を覚ましていて、すぐ開けようと待つ人は幸い。主人は帯を締め、この僕(しもべ)たちを食事の席に着かせ給仕してくれる」ヨハネ21章9節以下「陸に上がると、炭火が起こしてあって上に魚があり、パンもあった。『さあ来て食事をしなさい』」。
(注)別エントリー「試論:『一緒に食事をする』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ3章29節の通りヘブライ人は神を花婿に、神の民を花嫁に喩えた。従ってマタイ22章8節以下の通り、婚宴とは神が神の民の中の相応しい人々を神の国に迎え入れ喜びを共にすることである。主イエスは御受難と御復活の間に新しい天・地・エルサレムを創造され、旧約の義人たちを迎え入れられた。
(注)別エントリー「試論:『聖書が実現するため』?を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスは福音書で自身の御受難と御復活を随所で暗示されたが、御受難と御復活の間に御自分がどんな働きをなさるかについても、ヨハネ14章2節から3節で予告された。それはイザヤ65章17節以下の「新しい天・地・エルサレムの創造」預言の成就であり、御自身の復活の体の創造で完成の時を見た。
(注)別エントリー「主の御復活とともに創造された事柄とは」も参照のこと。
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古代のイスラエルは「神」と「神の民」の関係を「花婿」「花嫁」に喩えた。主イエスは御自身の御復活つまり「復活の体」(一コリント15章)創造に際し、イザヤ65章で預言された「新しい天・地・エルサレム」を創造されて、新しい「神の民」を迎える準備を完了された(ヨハネ14章2節以下参照)。
(注)別エントリー「主の御復活とともに創造された事柄とは」も参照のこと。
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【問】ヨハネ17章12節は「聖書が実現するため」と記しますが、一体何が実現したのですか?【答】エゼキエル37章27節「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの神となる」イザヤ66章8節「誰がこのようなことを見聞きしただろうか。一つの国が一日で生まれ、一つの民が一度に生まれようか」。
パウロは一コリント15章で「キリストの復活」こそ福音の核心であり、キリストの御復活つまり《天上の体(復活の体、霊の体)の創造》こそが信仰における全ての希望の源であると強調した。「天上の体」こそが、キリスト御自身のみならず、キリストを信じる全ての人々にとっての、目的地だからである。
(注)別エントリー「試論:『霊の帰還』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『天国の福楽を相続する』を140文字以内で」も参照のこと。
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黙示録21章16節以下では新しいエルサレムの巨大性が啓示される。これは当然、ヨハネ14章2節以下「わたしの父の家には住む場所がたくさんある。もしなかったなら、あなたたちのための場所を準備しに行くとは言わない。あなたたちの場所を準備したらあなたたちの許に戻って来る」を反映している。
主イエスは御受難と御復活の間に「新しい天・地・エルサレムの創造」を準備され誕生させたが、イザヤ66章8節は「誰がこのようなことを見聞きしたであろうか。一つの国が一日で生まれ一つの民が一日で生まれることがあり得るだろうか」と預言する。「天の国は近づいた」の「天の国」とはこれだった。
古代のイスラエルでは「神」と「神の民」との関係がしばしば「花婿」と「花嫁」と表現された。しばしば「女王」にもたとえられる都が「花婿」キリストを歓呼と共に迎え入れながら、数日後に裏切り、夜中に急襲して捕らえ一日のうちに死に至らしめたその行状から、「大淫婦」と呼ばれるのは当然である。
(注)別エントリー「試論;『大淫婦』の正体を140文字以内で」も参照のこと。
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黙示録18章7節「わたしはやもめではなく女王であり、決して悲しい目に遭わない」ルカ19章41節以下「イエスは都のために泣いて仰せになった、『もし今、お前が平和への道をわきまえていたならば。しかし今のお前は、それを理解していない。時が来て、敵がお前を包囲して四方から攻め寄せ〜』」。
(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
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(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
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