聖家族はどのような雰囲気の中で暮らしていたのか

(以下、聖書の日本語訳は、基本的にはフランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』によりますが、別の訳語を提示する場合は適宜説明を加えます)

◯詩編15(14)編1節~3節
「主よ、どのような人があなたの幕屋に留まれるのですか。どのような人があなたの聖なる山に住めるのですか。それは、咎(とが)なく歩み、義を行い、心からまことを語る人。舌に任せて人を傷つけず、友に悪を行わず、隣り人を辱(はずかし)めない者」

「隣り人を辱めない者」は、日本聖書協会新共同訳では「親しい人を嘲(あざけ)らない人」となっており、講談社バルバロ訳では「ののしらぬ人」。

◯詩編24(23)編3節~5節
「どのような人が主の山に登れるのか。どのような人がその聖所に立つのか。それは、手に汚れなく、心の清い人、むなしいことに心を向けず、偽りの誓いを立てない人。その人は主の祝福を受け、救い主である神の豊かな恵みを受ける」

◯マタイによる福音書5章8節
「心の清い人は幸いである。その人たちは神を見る」

◯箴言28章10節
「正直な人を悪い道に迷わす者は自分の掘った穴に陥(おちい)る。しかし、心の清い人は幸せを継ぐ」

◯申命記6章5節
「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたたちの神、主を愛しなさい」

◯箴言19章23節
「主を畏(おそ)れることは、命に至ること。満ち足りて憩い、災いに遭うことはない」

◯箴言8章12節~13節
「わたしは、知恵であり、分別とともに住み、わたしには知識と思慮とがある。──主を畏(おそ)れることは、悪を憎むことである──わたしは、高ぶりと、驕(おご)りと、悪の道と、ひねくれた口とを憎む」

◯箴言14章26節~27節
「主を畏れる者には安全な城壁があり、その子供たちには逃げ場がある。主を畏れることは命の泉。これによって、人は死の罠(わな)から逃れる」

◯詩編34(33)編19節
「主は、心の打ち砕かれた者の近くにあり、霊の打ち砕かれた者を救われる」

◯詩編35(34)編19節
「だまし打ちを仕掛ける敵を喜ばせず、故なくわたしを憎む者が、目くばせし合うことのないようにしてください」

「目くばせ」に関して、フランシスコ会聖書研究所訳の箴言6章の欄外の注には、「この悪者の身振りは他の人を罪に陥れるためのもの。」とある。

◯詩編51(50)編19節
「悔いる霊こそ、この上ない犠牲(いけにえ)。神よ、あなたはへりくだった悔いる心を、さげすまれません」

◯詩編147(146)編6節
「主はへりくだる者を支え、悪い者を地に倒される」

◯箴言29章23節
「人の高慢はその人を低くするが、へりくだる人は誉れを得る」

日本聖書協会新共同訳では「心の低い人は誉れを受けるようになる」とあり、「へりくだる人」を「心の低い人」と訳している。確かに「心の低い人」とは直訳調の表現ではあるが、しかしマタイ5章3節の「心の貧しい人」という表現を連想させるものでもある。

◯ルカによる福音書14章11節
「誰でも自ら高ぶる者は下げられ、自らへりくだる者は上げられる」

◯ルカによる福音書1章38節
「マリアは答えた、『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように』。すると、み使いは彼女から離れ去った」

◯詩編138(137)編6節
「主は高くいますが、低い者を顧みられ、高ぶる者には近づかれない」

◯ルカによる福音書1章47節~53節
「わたしの魂は主を崇(あが)め、わたしの霊は、救い主である神に、喜び躍ります。主が、身分の低いはしために、目を留めてくださったからです。そうです、今から後、いつの時代の人々も、わたしを幸いな者と呼ぶでしょう。力ある方が、わたしに偉大な業を行われたからです。その名は尊く、その憐みは代々(よよ)限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕をもって力ある業を行われ、心の思いの高ぶった者を、追い散らされました。権力をふるう者をその座から引き下ろし、身分の低い者を引き上げられました。飢えた者を善いもので満たし、富める者をむなしく追い返されました」

◯箴言15章33節
「主を畏れることは知恵の基(もとい)。謙遜(けんそん)は誉れに先立つ」

◯イザヤ書57章15節
「まことに、高く上げられ、とこしえに住まわれ、その名が聖なる方は、こう仰せになる、『わたしは高く、聖なる場所に住まうが、打ち砕かれ、霊においてへりくだった者とともにいる。霊においてへりくだった者たちに新しい命を与え、心の打ち砕かれた者たちに新しい命を与えるために』」

◯ヤコブの手紙4章4節~8節
「神を捨てた人々よ、この世への愛着は、神の敵であることを知らないのですか。この世の友になりたいと思う者はみな、自分を神の敵とするのです。それとも、神はわたしたちに宿らせた霊を、嫉妬(しっと)するほど慕っておられる、と聖書に言われているのは、むなしいことだと思うのですか。また、さらに豊かな恵みをお与えになります。そこで、『神は高ぶる者に逆らい、へりくだる者に恵みをお与えになる』と言われています。ですから、神に従い、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなた方から逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神もあなた方に近づいてくださいます。罪人たちよ、手を清めなさい。二心のある人々よ、心を清めなさい」

フランシスコ会聖書研究所訳の欄外の注によれば、6節の「神は高ぶる者に逆らい、へりくだる者に恵みをお与えになる」は、ギリシア語訳箴言3章34節の引用。

◯ヤコブの手紙4章9節~10節
「悲しみなさい、嘆きなさい、泣きなさい。笑いを嘆きに変え、喜びを悲しみに変えなさい。主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主はあなた方を高めてくださいます」

◯マタイによる福音書5章3節~10節
「自分の貧しさを知る人は幸いである。天の国はその人たちのものである。悲しむ人は幸いである。その人たちは慰められる。柔和な人は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人は幸いである。その人たちは満たされる。憐(あわ)れみ深い人は幸いである。その人たちは憐れみを受ける。心の清い人は幸いである。その人たちは神を見る。平和をもたらす人は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害されている人は幸いである。天の国はその人たちのものである」

フランシスコ会訳の欄外の注には、「『自分の貧しさを知る人』は、一般には『心の貧しい人』と訳されているが、直訳では『霊において貧しい人』。」と書かれている。
ヤコブ4章においては「この世の友」と「神の敵」が同一視されていることを踏まえれば、「霊において貧しい人」とは「この世への愛着」を捨てて神に従う人のことであると考えられる。

◯箴言15章28節~29節
「正しい者の心はどう答えるかを思い巡らすが、悪者の口は悪態をつく。主は悪者から遠ざかり、正しい者の祈りを聞き入れられる」

◯箴言16章5節
「主は心高ぶる者をすべて忌み嫌われる。この者が罰を免れないのは確かである」

◯箴言14章16節
「知恵ある者は畏れて悪を避けるが、愚か者は高ぶって自分を過信する」

◯箴言21章26節
「悪者は一日じゅう、物を欲しがる。しかし、正しい人は惜しみなく与える」

◯箴言28章14節
「絶えず恐れのうちに注意深く生きる人は幸い。しかし、心の頑(かたく)なな者は災いに陥る」

新共同訳では「いかに幸いなことか、常に恐れを抱いている人」。

◯箴言23章17節~18節
「お前は心で罪人(つみびと)をうらやんではならない。ただ、主を、いつも、畏れ敬え。お前が、それを持つなら、お前には将来があり、お前の望みは絶たれることがない」

フランシスコ会訳の欄外の注には、「『将来がある』という表現は明らかではない。ギリシア語訳では子孫に恵まれ喜びに満ち長寿を全うするの意。」とある。

箴言6章には、マリアとヨセフの二人とは根本的に無縁であったであろう事柄について、書かれている。

◯箴言6章16節~19節
「主の憎むものが六つある。いや、その忌み嫌うものが七つある。高慢な目、偽(いつわ)る舌、罪のない者の血を流す手、邪な計画を企む心、悪に走る速い足、偽りを吐く偽証人、兄弟の間に口喧嘩(くちげんか)の種を蒔(ま)く者が、これである」

同じく箴言の3章には、マリアとヨセフの二人とは根本的に無縁であったであろう事柄について、書かれている。

◯箴言3章29節~32節
「信頼してお前と一緒に住んでいる隣人に、悪を企(たくら)んではならない。人がお前に害を与えていないのなら、理由もなく、その人と争うな。乱暴者をうらやむな。彼の道を一つでも真似(まね)るな。主は邪(よこしま)な人を忌み嫌われる。しかし、まっすぐな人に親しくされる」

◯箴言3章33節
「主の呪いは悪人の家に留(とど)まるが、その祝福は正しい人の住まいに留まる」

◯ペトロの第一の手紙5章6節~8節
「ですから、神の力強い手のもとに、へりくだりなさい。時が来れば、神があなたを高めてくださるでしょう。すべての思い煩いを神に委ねなさい。神があなた方を、顧(かえり)みてくださるからです。身を慎み、目を覚ましていなさい。あなた方の反対者、悪魔が、誰かを食い尽くそうと探し回っています」

◯箴言10章24節
「悪者の恐れていることは、その身に降りかかり、正しい者の望んでいることはかなえられる」

◯マタイによる福音書1章19節
「マリアの夫ヨセフは正しい人で、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに離縁しようと決心した」

◯ハバクク書2章4節
「正しい人はその誠実さによって生きる」

◯ローマの人々への手紙1章17節
「『正しい人は信仰によって生きる』と記されている通りです」

◯ガラテヤの人々への手紙3章11節
「律法によって誰も神の前で義とされないことは明らかです。『正しい人は信仰によって生きる』からです」

◯ヘブライ人への手紙10章38節
「正しい人は信仰によって生きる。もし彼がわたしから遠ざかるなら、彼は、わたしの心にかなわない」

◯詩編1編6節
「正しい者の集いは主に守られ、悪い者の道は滅びに至る」

ルカ福音書2章51節では、少年時代の主イエス・キリストがマリアとヨセフの二人に対してどのような態度を取っておられたかを、端的に表現している。

◯ルカによる福音書2章51節~52節
「それから、イエスは両親とともにナザレに下って行き、二人に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをことごとく心に留めていた。イエスは知恵も増し、背丈も伸び、ますます神と人に愛された」

◯マタイによる福音書23章11節~12節
「あなた方の中でいちばん偉い者は、みなに仕える者になりなさい。自ら高ぶる者は下げられ、自らへりくだる者は上げられる」

◯ルカによる福音書2章39節~40節
「さて、両親は主の律法どおりにすべてをすませて、自分たちの町、ガリラヤのナザレに帰った」
「幼子は成長し、たくましくなり、知恵に満たされた。神の恵みがその上にあった」

◯レビ記19章2節
「イスラエルの子らの全会衆に告げよ、『お前たちの神、主であるわたしは聖であるから、お前たちも聖でなければならない』」

レビ記19章2節「お前たちの神、主であるわたしは聖であるから、お前たちも聖でなければならない」は、マタイ福音書5章48節「天の父が完全であるように、あなた方も完全な者となりなさい」とルカ福音書6章36節「あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者となりなさい」とで引用されている。

◯マタイによる福音書5章43節~45節、48節
「あなた方も聞いているとおり、『あなたの隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、あなた方に言っておく。あなたの敵を愛し、あなた方を迫害する者のために祈りなさい。それは、天におられる父の子となるためである。天の父は、悪人の上にも善人の上にも太陽を昇らせ、正しい者の上にも正しくない者の上にも雨を降らせて下さるからである」
「だから、天の父が完全であるように、あなた方も完全な者となりなさい」

◯マタイによる福音書6章14節~15節
「人の過ちを赦すなら、あなた方の天の父もあなた方を赦してくださる。しかし、あなた方が人を赦さないなら、あなた方の父も、あなた方の過ちを赦してくださらない」

◯レビ記19章16節~18節
「お前の身内を歩き回って、人を中傷してはならない。お前の隣人の命に関わるような偽証をしてはならない。わたしは主である」
「心のうちでお前の兄弟を憎んではならない。必要なら同胞を戒(いまし)めなければならない。そうすれば、彼のことで罪を負うことはないであろう。復讐(ふくしゅう)してはならない。お前の民の子らに恨みを抱いてはならない。お前の隣人をお前自身のように愛さなければならない。わたしは主である」

主イエス・キリストがマタイ22章で言及された隣人愛の掟(39節)は、このレビ記19章18節を引用されたものであるが、レビ記の同じ章には「中傷」「偽証」「心のうちで憎む」「復讐」「恨み」など、隣人愛の反対に該当する事柄が色々と列挙されている。

◯ヨハネの第一の手紙2章3節~4節
「もしわたしたちが神の掟を守るなら、そのことにおいて、わたしたちは神を知っていることが分かります。神を知っていると言いながら、その掟を守らない人は、偽り者であり、その人の中に真理はありません」

◯ヨハネの第一の手紙5章3節
「神への愛とは、神の掟を守ることです。そして、その掟は難しいものではありません」

◯箴言20章22節
「『悪に報いてやろう』と言ってはならない。主を待ち望め。主がお前を救ってくださる」

◯箴言24章29節
「『彼がわたしにしたように、わたしも彼にしよう。わたしは誰にでも、その行いに応じて仕返しをしよう』と言うな」

◯ペトロの第一の手紙1章14節~16節
「かつて無知であった時のいろいろな欲望に従わず、素直な子供のように、あなた方を召された聖なる方に倣って、あなた方自身もあらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。聖書に、『わたしは聖なる者である。あなた方も聖なる者となりなさい』と書かれています」

「わたしは聖なる者である。あなた方も聖なる者となりなさい」はレビ記19章2節から引用している。

◯マタイによる福音書18章7節
「人をつまずかせるこの世は不幸である。つまずきは避けられない。しかし、人をつまずかせる者は不幸である」

◯ルカによる福音書17章1節~2節
「また、イエスは弟子たちに仰せになった、『つまずきが生じるのを避けることはできない。しかし、それをもたらす人は不幸である。その人にとって、この小さな者の一人をつまずかせるよりは、むしろ首に碾(ひ)き臼(うす)をくくられ、海に投げ込まれるほうがましである』」

◯ローマの人々への手紙14章13節
「したがって、もはや互いに裁き合わないようにしましょう。むしろ、妨げになるものや、つまずきになるものを、兄弟に対して置かないよう決心しなさい」

◯ペトロの第一の手紙2章1節~2節
「それ故、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、妬み、一切の悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、み言葉である清い乳を切に求めなさい。それによって、あなた方が成長し、救いに至るためです」

◯ガラテヤの人々への手紙5章22節~23節
「しかし、霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟(おきて)はありません」

この箇所について、E・ラゲ訳では、「霊の効果」として、「(愛)」「喜び」「平安」「堪忍(かんにん)」「慈恵(じけい)」「(忍耐)」「温良(おんりょう)」「真実」「謹慎(きんしん)」「節制」「貞操(ていそう)」と列挙している。

また、日本聖書協会新共同訳『聖書』では、フランシスコ会訳と同様の表現が列挙されている。

バルバロ訳『聖書』(講談社)においては、「愛」「喜び」「平和」「寛容」「仁慈(じんじ)」「善良」「誠実」「柔和」「節制」などという表現である。

◯トビト記4章15節
「お前自身が嫌うことを他人にしてはならない」

新共同訳では「自分が嫌(いや)なことは、ほかのだれにもしてはならない」。講談社バルバロ訳(『トビアの書』)では「おまえのしてもらいたくないことは、他人にもするな」。

◯ルカによる福音書6章31節
「あなた方は、人からしてほしいことを、人にもしなさい」

◯マタイによる福音書7章12節
「だから、何事(なにごと)につけ、人にしてもらいたいと思うことを、人にもしてあげなさい。これが律法と預言者の教えである」

◯ルカによる福音書6章34節~36節
「返してくれるあてのある人に貸したからといって、何の恵みがあるだろうか。返してもらえるのなら、罪人でさえ罪人に貸している。しかし、あなた方はあなた方の敵を愛しなさい。人に善を行いなさい。また、何もあてにしないで貸しなさい。そうすれば、あなた方の報いは大きく、あなた方は、いと高き方の子らとなる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深い方だからである。あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者となりなさい」

◯ルカによる福音書6章37節~38節
「裁いてはならない。そうすれば、あなた方も裁かれない。人を罪に定めてはならない。そうすれば、あなた方も罪に定められない。赦(ゆる)しなさい。そうすれば、あなた方も赦される。与えなさい。そうすれば、あなた方にも与えられる。押し入れ、揺さぶり、溢(あふ)れるほど升(ます)の量りをよくして、あなた方のふところに入れてもらえる。あなた方が量るその升で、あなた方も量り返されるからである」

◯マタイによる福音書18章21節~22節
「その時、ペトロが近寄って、イエスに尋ねた、『主よ、わたしの兄弟がわたしに罪を犯した場合、何度、赦さなければなりませんか。七回までですか』。イエスはお答えになった、『あなたに言っておく。七回どころか、七の七十倍までである』」

◯ルカによる福音書17章3節~4節
「気をつけなさい。もしあなたの兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして、悔い改めるなら、彼を赦しなさい。また。もし彼が一日に七度、あなたに対して罪を犯し、七度あなたのもとに戻ってきて、そのつど、『悔い改めます』と言うなら、彼を赦しなさい』」

◯ヤコブの手紙1章19節~21節
「わたしの愛する兄弟たちよ、心に留めておきなさい。人はみな、聞くに早く、語るに遅く、怒るにも遅くなければなりません。人の怒りは、神の義を実現するものではありません。ですから、あらゆる汚れや溢れ出る悪を捨てて、あなた方の心に植えつけられたみ言葉を素直に受け入れなさい。み言葉には、あなた方の魂を救う力があります」

◯シラ書27章30節
「怒りと憤(いきどお)りもまた憎むべきもの、罪深い者はこの両方を備えている」

◯シラ書28章3節~5節
「人が人に対して怒りを抱いていながら、どうして癒(い)やされることを、主に求めることができようか。自分と同じ人間に、憐れみを示さないで、どうして、自分の罪のために祈ることができようか。人は肉に過ぎないものでありながら、なおも怒りを抱くなら、誰が、その罪を赦すことができようか」

◯出エジプト記34章5節~7節
「主は雲の中にあって降(くだ)り、彼とともにそこに立ち、主という名を宣言された。主はモーセの前を通り過ぎて宣言された、『主、主とは、憐(あわ)れみ深く、恵みに富み、怒ること遅く、慈(いつく)しみとまことに溢(あふ)れる神である。千代に慈しみを及ぼし、悪と背(そむ)きと罪を赦(ゆる)す。しかし、罰すべき者は罰せずにはおかない。父の悪を子に報い、孫に報いて三代、四代に及ぼす』」

◯詩編130(129)編3節~4節
「主よ、もしあなたが悪に目を留められるなら、主よ、誰が立っていられましょう。しかし、あなたのもとには赦しがあります。それ故、人々はあなたを敬います」

新共同訳では、「あなたが罪をすべて心に留められるなら」「誰が耐ええましょう」(3節)「赦しはあなたのもとにあり人はあなたを畏れ敬うのです」(4節)。

◯ルカによる福音書6章45節
「善い人は、心にある善い倉から善い物を出し、悪い人は、心にある悪い倉から悪い物を出す。口は心に溢れることを語るものである」

◯マタイによる福音書6章9節~15節
「だから、あなた方はこう祈りなさい、『天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。み旨が天に行われるとおり、地にも行われますように。今日の糧(かて)を今日お与えください。わたしたちの負い目をお赦しください。同じようにわたしたちに負い目のある人をわたしたちも赦します。わたしたちを誘惑に陥(おちい)らないよう導き、悪からお救いください』。人の過ちを赦すなら、あなた方の天の父もあなた方を赦してくださる。しかし、あなた方が人を赦さないなら、あなた方の父も、あなた方の過ちを赦してくださらない」