(以下、聖書の日本語訳は、基本的にはフランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』〔サンパウロ〕によりますが、必要に応じて他の日本語訳も適宜、引用します)
カトリック教会には、聖母マリアが三歳でエルサレムの神殿に奉献され聖ヨセフと婚約するまでの少女期をそこで過ごしたという、聖伝がある。
新約聖書には、この聖伝(聖母マリアの神殿奉献)に関する直接の記述は見当たらない。
聖母マリアの神殿奉献という聖伝に関しては、その伝承のルーツは紀元二世紀半ば頃に成立したと考えられる『ヤコブの原福音(Protoeuangelium Iacobi, Protoevangelium of James)』という外典書に由来すると、しばしば誤解されてきた。
(注)別エントリー「聖書の時代に神殿の処女は存在したのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1539
なぜ外典書『ヤコブの原福音』に由来するという考え方が誤りであるかというと、四世紀末までに既に聖ヒエロニムスが指摘しているように、その外典書には「マリアと婚約する以前にも、ヨセフには結婚歴があり、前妻との間に子供たちをもうけていた」といった類の、カトリック教会の聖伝とは相反する記述が存在するからである。
(注)別エントリー「主の御降誕の時ヨセフは何歳だったのか【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11500
ヤコブの名を冠する外典福音書が信用に値しない理由について、以下に列挙する。
【1】マタイ福音書にもルカ福音書にも主の御降誕に介在した助産婦の存在は言及されず、ルカ2章7節は母マリアが自分で生まれた子を取り上げたことを示唆しているが、外典福音書には助産婦が主の御降誕の夜にそこにいたことが記述されている。ルカ2章16節によれば、御降誕の夜に羊飼いたちが目撃したのは乳飲み子イエスとマリアとヨセフの三人だけであった。
【2】マタイ福音書にもルカ福音書にもイエスの養父ヨセフが発した言葉は一つも記録されてなどいないが、外典福音書の中ではヨセフはむしろ多弁ともいっていいくらいによく喋る人物であり、また外典福音書ではヨセフはマリアにとってありがたくはない行動に出ることもある高齢者として描かれているが、マタイ福音書にもルカ福音書にもヨセフの行動がマリアを窮地に追い込んだエピソードは一つとして記述されてなどいない。
【3】外典福音書にはヨセフがマリアのために助産婦を探しに出て行く場面があるが、外典福音書は著者として「ヤコブ」を称しているにもかかわらず、この場面の前後では「私ヨセフは」などと登場人物のヨセフがなぜか唐突に一人称で一人語りを始めており構成が不自然で、この文書が何か真面目ではない意図の下に編纂されたことを暗示している。【2】でも触れたがマタイ福音書にもルカ福音書にもヨセフが発した言葉は一つも記述されてはいない。
【4】外典福音書にはマリアの妊娠に気付いたヨセフがマリアを問い詰める場面があるが、マタイ福音書にもルカ福音書にもそのような場面は登場せず、ただマタイ1章20節で夢の中に主の天使が現われて事情を説明するまでは、ヨセフは自分の内面だけで人知れず葛藤を抱えていた。原文で使用されたギリシア語の動詞「エントゥメオマイ」は、たとえヨセフの心中に怒りや憤慨があったとしてもそれはあくまでも当人の内面に留まったことを示唆している。
【5】外典福音書ではヨセフがマリアを問い詰めた後で、ヨセフはそのままマリアのことをユダヤ教の権威者たちに公に告発することで話が展開していくが、マタイ福音書ではヨセフがそのような行動を取ったことを記述しておらず、ただマタイ1章19節ではヨセフがマリアの名誉を守る意味でもひそかに縁を切ろうと決心したことだけを記述しており、マタイ福音書ではヨセフは心理的に激しく動揺しながらも一方でマリアへの配慮をも決して忘れてはいなかった。
【6】外典福音書ではヨセフには結婚歴があって前妻との間に子をもうけていたことが記述されているが、マタイ福音書にしてもルカ福音書にしても、確かにイエスに「兄弟たち」が存在したことに言及してはいるが、その「兄弟たち」がヨセフと前妻との間の子供たちのことであるなどとは、全く記述していない。古代のヘブライ語の「兄弟」は、単に親を同じくする同胞を意味するだけではなく、広い意味で親族の男性全般をも包含した総称的表現として用いられていた。
【7】外典福音書ではベツレヘムの住民登録の際、ヨセフは高齢者の自分がまだ若いマリアと二人で出掛けるのは外聞が悪いからと考え、前妻との間の息子を呼び寄せ、その息子をマリアとともに自分より先に出発させ、ヨセフ自身は後からついていったという記述をしているが、マタイ福音書にもルカ福音書にもこんな真面目さが感じられない与太話は全く存在しないし、両正典福音書には主の御降誕の前後の時期に「ヨセフと前妻との間の息子」など、全く登場していない。
【8】外典福音書ではベツレヘムでヨセフが助産婦を探しに行く際にもマリアの近くに「ヨセフと前妻との間の息子たち」が残る場面があるが、ルカ福音書2章16節によれば天使に促されるままに御降誕の聖家族のところに向かった羊飼いたちがそこで目撃したのは、乳飲み子イエスとマリアとヨセフのその三人だけであって、それ以外の人物に言及しておらず、ルカ福音書にもマタイ福音書にも、主の御降誕の前後の時期に「ヨセフと前妻との間の息子たち」などは全く登場しない。
【9】外典福音書にはヨセフは高齢者として登場するが、マタイ福音書にもルカ福音書にもヨセフの年齢に関する直接的な言及はない。ルカ2章36節にはファヌエルの娘アンナという女預言者が非常に高齢で、次の37節にはその年齢が八十四歳であったことが記されている。もしもヨセフが本当に高齢者であり、マリアとの間に特筆すべき年齢差が実際に存在したとするならば、女預言者アンナについて記述したように、ヨセフについてもルカ福音書が必ず具体的な年齢を記述したはずであるが、そうはしなかった。
【10】福音書に登場するヨセフは、控え目で余計なことを口にせず思慮深い半面、いざとなると大変な行動力を持つ頼もしい人物であるが、外典書に登場する「高齢者ヨセフ」は率直というよりも直情径行的なところがあって思慮深いとはとても言えず、感情の起伏が激しく、そのような気性ゆえに思ったことはむしろすぐ口に出してしまいがちで、時にマリアにとって明らかにありがたくはない行動や言動に出ることもあるような、良く言えば極めて人間臭く、また悪く言えば軽佻浮薄な部分がある老人として描かれている。外典書の「高齢者ヨセフ」は福音書のヨセフに比べて、【7】のエピソードに象徴されるように夫として妻を支えようという愛情や優しさが感じられず、保護者としての責任感もどこか薄く、ヨセフとマリアの間の距離感やよそよそしさが印象に残る。
【11】外典書ではヨセフとマリアとの間に極端な年齢差が与えられ、ヨセフを多弁で押しが強い高齢者として描くことで、福音書と比較してヨセフが必要以上に存在感を発揮している分、副産物として、マリアにもどことなく幼く頼りないイメージを与えてしまっており、結果的に外典書ではヨセフだけではなくマリアのイメージもまた大きく損なわれている。ルカ福音書に登場するマリアは自分自身が初めての妊娠を経験する若い女性であるのにもかかわらず、自分よりもはるかに高齢で自分よりも六か月前にやはり初めて妊娠した親族のエリサベトに付き添うために、ガリラヤからユダヤに旅することも躊躇しないなど、むしろ年齢の割にはかなりの「しっかり者」であったことが記事からは推察され、決して外典書が示唆するような、幼く頼りないイメージの少女のようではありえなかった。
【12】聖ヒエロニムスは、聖母マリアの終生童貞について論じた著作(De perpetua virginitate beatae Mariae adversus Helvidium)の中で、イエス・キリストの父親と呼ばれ、そしてマリアの夫と呼ばれるべき人物について、妻のマリアが童貞であったように夫のヨセフもまた必然的に童貞であったに違いないと結論している。なぜなら、唯一無二の存在である童貞マリアの終生童貞の保護者を務める男性が、初婚者ではなく結婚歴のある人物で複数の子持ちであるというのは道理に合わず、神があえてそのような再婚者となる男などを聖母の配偶者にお選びになることは考えられないというのが、聖ヒエロニムスの論理である。童貞マリアの保護者として選ばれた人物は、とりわけまず第一にその処女性(終生童貞)の保護者であるべきであって、そのためには、聖母の保護者として選ばれたその男もまたマリアと同様に終生童貞であったに違いないと考えるのが、必然的帰結となる。
(注)別エントリー「婚約者の妊娠を知った時のヨセフの心情」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3092
いわゆる東方教会のギリシア教父たちの少なくとも何人かが「ヨセフの前妻」説を採用した一方、ローマの教会では聖ヒエロニムスが断固として聖ヨセフの終生童貞を主張し、外典書をも否定したため、歴代教皇のうちではまず聖ダマスス一世が聖ヒエロニムスの主張を容れて外典書『ヤコブの原福音』を排斥したとされ、また五世紀の聖インノケンティウス一世も、同じくこの外典書を排斥した。
そして五世紀末の教皇である聖ゲラシウス一世の名前がしばしば冠せられる『教令集』でも同様に、この外典書は肯定的な意義あるものとしての地位を決して与えられることがなかった。
以上のように五世紀までには、ローマ・カトリック教会における「聖ヨセフの終生童貞」の概念が基礎付けられた。
(注)別エントリー「予備的考察:聖母崇敬そして聖ヨセフ崇敬の起源とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1750
このような聖ヒエロニムスとギリシア教父たちとの間の見解の相違は、「ヨセフという存在をどう捉えるか」という点では、ローマ教会と東方教会との見解の差異として現在に至るも残っている。
ローマ教会では聖母の終生童貞のみならず聖ヨセフの終生童貞という概念も存在するため、聖画像においても、「聖母子」の構図の他に「聖家族」──つまり聖母子と聖ヨセフの三人──を一つの構図の中に収めるという概念も、当然ながら存在している。一方、「ヨセフはマリアとの婚約以前にも結婚歴があり、前妻との間に複数の子供をもうけていた」という「ヨセフの前妻」説が影響力を持っていた東方教会においては、それに伴いヨセフの地位も、自然とローマ教会においてよりは低く抑えられ、聖画像の領域でも「聖母子」の構図は好まれるが、「聖母子」とヨセフとの間には一線を画すべきであるという考え方が存在し、ローマ教会のような「聖家族」の構図はむしろ忌避される傾向が東方教会においては見られた。
もしも外典書の記述を受け容れて、「ヨセフにはマリアとの婚約以前に結婚歴があり、前妻との間に複数の子供をもうけていた」という話を了承するのならば、「聖家族」の構図に抵抗を覚えるのも無理からぬことではある。
逆に言えば、ローマ教会が「ヨセフの前妻」説を収録した外典書『ヤコブの原福音』に対して相当厳しい目を向けていた一方で、東方教会の側では「ヨセフの前妻」説の部分に関しては特段問題視されなかった。
以上のように、「ヨセフという存在をどう捉えるか」という事柄を軸にして考えると、ローマ教会と東方教会との間の隔たりは、実は決して小さいとは言えないのである。
(注)別エントリー「聖ヨセフ:ディカイオスを旧約聖書で考察」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1613
ヤコブの名を冠する外典福音書は、確かに初めの方の部分では、幼子である聖母マリアの神殿奉献に関してまとまった記述を残しており、それはカトリック教会の聖伝と大筋において合致するものではある。
しかし、神殿から出てヨセフと生活することになる辺りからは、マタイ福音書やルカ福音書の記述とは合致せずカトリック教会の聖伝とも合致しない非常に怪しい記事が延々と続いている。
この外典福音書の記事は、前段の部分すなわち幼子である聖母マリアの神殿奉献の部分はともかくとして、肝心の後段の部分、すなわちマリアの結婚から主イエス・キリストの御降誕に至るまでの経緯の部分に関しては、著しく信頼性の落ちる実に胡散臭い内容のものと感じられる。
なにより主イエス・キリストの養父であるヨセフに関して、この外典福音書では大きくイメージが損なわれており、はっきり言って貶められているとしか表現できない。
キリスト教の歴史において、主イエス・キリストの養父ヨセフは不当に低い評価を受けていた期間が長きにわたったが、その低評価に最も大きな悪影響を与えたのは、疑う余地なく、ヤコブの名を冠したこの外典福音書に他ならないと判断できる。
外典福音書にはヨセフがマリアのために助産婦を探しに出て行く場面があるが、外典福音書は著者として「ヤコブ」を称しているにもかかわらず、この場面の前後では「私ヨセフは」などとヨセフがなぜか唐突に一人称で一人語りを始めており構成が不自然で、この文書が何か良からぬ意図の下にこしらえられたことを暗示しており、この外典福音書がヨセフの人となりについて記述している事柄は全て虚偽であると言っても、恐らく過言ではないであろう。
マタイ福音書にもルカ福音書にもヨセフが発した言葉は一つも記述されてはいない。
以上の事情から、この外典福音書は複数(二つあるいはそれ以上)の情報源に基づく別々の資料をひとまとめにつなぎ合わせて作成されたものと、古くから推測されてきた。
外典書の記述中には現在のカトリック教会の主張と一致している部分と相反する部分とが混在しているという事実から、この外典書とはまた別系統の伝承によって幼子である聖母マリアの神殿奉献という事柄への信仰が受け継がれてきたと考えることが可能である。
実際に幼子である聖母マリアの神殿奉献という伝承に関しては、六世紀半ば(紀元543年)にはエルサレムの教会でその祝日(11月21日)が制定されるなど、各国の諸教会において信頼に値する聖伝として受け入れられ広まっていった。
(注)別エントリー「聖書の時代に神殿の処女は存在したのか」も参照のこと。【再掲】
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1539
もちろん、外典書に含まれている情報の全てが誤りというわけではない。
マリアの両親がヨアキムとアンナである、という記述はもちろんカトリック教会の聖伝と一致しており、またマリアが三歳の時に神殿に奉献され少女期をそこで過ごした後、ヨセフと結婚後も処女のままで十六歳の時にイエスを出産した、という話も、概ね受け入れられている伝承である。
以上のように、外典書の中にはカトリック教会の聖伝と一致している話と相違している話とが混在しており、しかも、聖伝そして正典福音書の記述とも大きく矛盾している話がかなり含まれているため、その取り扱いについては非常に注意深く慎重でなければならない。
少女期の聖母の神殿奉献に関しては、ヤコブの名を冠した外典福音書以外の別系統の伝承として、一世紀の聖人である聖エヴォディウスの証言に遡ることができる。
聖エヴォディウスは、聖ペトロの後を受けてシリアのアンティオキアの司教になった人物で、また一説にはルカ福音書10章で主イエス・キリストが選ばれた七十二人の中の一人であったとされるが、この聖人が聖母の神殿奉献に関する情報を最初に残したとされている。
一世紀のこの聖人の証言に関する記録は、一四世紀前半のギリシア正教会の歴史家ニケフォロス・カリストスによって書き残されている。
聖母の神殿奉献に関する証言は、外典書よりもさらに古い時代に、既になされていたのである。
聖エヴォディウスのこの証言によれば、聖母マリアは三歳の時に主の神殿に奉献され、そして結婚適齢期となって聖ヨセフとの婚約が決まって彼に委託される時まで、エルサレムの神殿で十一年の間、生活していたということである。そして、神の母が世界に救い主をもたらしたのは十五歳の時であったと、この聖人は書き記したが、しかし既にその著作は失われてしまっている。
前述した歴史家は、コンスタンティノープル総主教座聖堂であるハギア・ソフィアの聖職者であったが、恐らくその図書館に所蔵されていた古文書を利用して、一世紀の聖人の証言に遡ったものと、推測される。
しかし、一五世紀半ばにコンスタンティノープルがトルコ人に征服された結果、ハギア・ソフィアはイスラム教のモスクに改造されてしまい、その貴重な蔵書も散逸してしまったと考えられる。
聖エヴォディウスは紀元七〇年のエルサレム神殿の滅亡より少し前に帰天したと推測されている。
外典書の記述がカトリック教会の聖伝と相違する事項として、ヨセフに結婚歴があり複数の子供がいたなどの話があるが、少女時代のマリアと婚約した際にヨセフがかなりの高齢者であったという件に関しても、外典書が言及するところのヨセフの結婚歴とか複数の子供の存在とかとの話の辻褄を合わせるためのものと考えられ、基本的に信頼には値しない情報であると思われる。
実のところ聖ヨセフの年齢に関しては新約聖書に全く記述がなく、聖母との年齢差については何ら特記すべき事柄がなかった(あえて特筆すべき必要性がなかった)ことを暗示している。
マタイ福音書とルカ福音書とを先入観なしに読む限り、福音書の中のヨセフを高齢者と考える理由は見当たらない。
(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4464