(以下、聖書の日本語訳は、特に言及がない場合、フランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』によります)
マタイによる福音書24章15節〜16節には、「預言者ダニエルによって言われた『荒廃をもたらす憎むべきもの』が聖なる場所に立つのを見たなら、──読者は悟れ──その時、ユダヤにいる人は山に逃げなさい。」とあります。
(フランシスコ会聖書研究所訳「荒廃をもたらす憎むべきもの」は、新共同訳「憎むべき破壊者」バルバロ訳「<荒らす者のいとわしいもの>」ラゲ訳「『いと憎むべき荒廃』」日本聖書協会口語訳「荒らす憎むべき者」などの表現です)
この「荒廃をもたらす憎むべきもの」は、ダニエル書9章27節の預言に登場するものです。
また、当時のユダヤ世界において「聖なる場所」とは、エルサレムの神殿(とりわけ、その聖所)に他なりません。
ダニエル書9章は、第一神殿の滅亡とバビロン捕囚という憂き目を体験したユダヤ人たちの思いを代表するかのような、エルサレムそしてその神殿の再建を強く願うダニエルの祈り(3節〜21節)と、それに対する応答である「七十週」の預言(24節以降)によって構成されています。
ということは「七十週」の預言とは必然的に、再建後のエルサレムとその神殿──すなわち、第二神殿の時代のエルサレムに関する預言であるとしか解釈できません。
(注)別エントリー「ダニエル書9章の『七十週』預言」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/22
逆に言うなら、この9章におけるダニエルの関心事は、エルサレムそしてその神殿の再建より他にありません。そうである以上、「荒廃をもたらす憎むべきもの」「憎むべき破壊者」「<荒らす者のいとわしいもの>」「『いと憎むべき荒廃』」「荒らす憎むべき者」などと呼ばれた者は、必ず第二神殿時代のエルサレムに登場している(していた)に違いありません。
(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859
ところが、ルカによる福音書21章20節〜21節には、「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいているのを悟りなさい。その時、ユダヤにいる人は山に逃げなさい。また、都にいる人はそこを立ち去り、地方にいる人は都に入ってはならない。」とあります。
(日本聖書協会の新共同訳『聖書』では、「都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。」と表現されています)
つまり「荒廃をもたらす憎むべきもの」が聖なる場所に立つのは、「エルサレムが軍隊に囲まれ」た時、すなわち「その滅亡が近づいている」その時ということになります。
実際のところ、紀元七〇年にエルサレムを包囲していた軍隊すなわちローマ軍が神殿の聖所を占領した際には、既にエルサレムはほとんど廃墟と化しており、ユダヤにいる人がローマ軍による聖所占拠を見てから山に逃げたとしても、それはあまりに遅きに失した話で、もはやエルサレムはその時点でそれこそ「滅亡」してしまっていたのです。
イエス・キリストの公生活の日々からおよそ四十年を経て、ローマ軍に対するユダヤ人たちの反乱は、エルサレムとその神殿との滅亡をもって凄惨な幕切れを迎えました。
ユダヤにまだ残っている人が安全のうちに山へ逃げようとするのであれば、ローマ軍がエルサレムを囲もうとしている時点、すなわちエルサレムの包囲を完成させてしまう以前の段階で、その行動に出なければなりません。
ローマ軍がエルサレムの包囲をいったん完成させてしまった後からでは、「都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。」というイエスの指示を実行することは、もはや不可能になってしまうからです。
つまり、聖なる場所に立つ「荒廃をもたらす憎むべきもの」──「憎むべき破壊者」「<荒らす者のいとわしいもの>」「『いと憎むべき荒廃』」「荒らす憎むべき者」──とはローマ軍のことではない、と必然的に考えざるをえません。
この「荒廃をもたらす憎むべきもの」は、ローマ軍がエルサレムを滅亡させる以前の、まだローマ軍がエルサレムの包囲に取り掛かろうとしている時点(包囲を完成させる以前)に、エルサレムの城壁の内側に既に登場していたということになります。
ユダヤ人の歴史家ヨセフスやローマ人の歴史家タキトゥスによれば、ローマ軍が包囲しようとしていたエルサレムの城内には、ユダヤの各地からの避難民のほか、ローマ軍に敗れた前線の兵士たちや、同じくユダヤの各地で活動していた無法者たちの集団などが、続々と流れ込んでいたのです。
当時のエルサレムは、ずっと以前からローマに対する反乱を想定していたかのように、堅固な要塞都市と化しており、その中心が神殿でした。
ですから、神殿の聖所もそれ自体が一種の要害のようになっていたのです。
その後ローマ帝国が一時的な内戦状態に陥り、それに伴っていったんローマ軍の脅威が去ったかのように見えると、敗残兵の集団と無法者の集団とは結託して一つの大きな武装勢力を形成し、神殿の聖所を占拠するとそこを根城に、エルサレムの市民たちに対して略奪・暴行をほしいままにし、逆らおうとする者たちに対して容赦なく虐殺を行ない、また先祖伝来の律法に背く行為を市民たちに強制するなど、無法の限りを尽くしていました。
ローマ軍の脅威が去ったかに見えた間、都エルサレムに存在した武装勢力は三派に分立し、一般の市民たちをも巻き込んで血で血を洗う抗争を繰り返し多くの犠牲者を出しました。この三つの集団の指導者はそれぞれギスカラのヨハネ、シモン・バル・ギオラ、エレアザルといった人々でした。
敵であるローマ軍がエルサレムを破壊する以前に、実はエルサレムの城壁の内部にいた無法集団によって、伝統的な宗教生活が既に崩壊してしまっていたのです。
また、武装勢力同士の抗争に伴う放火で、長期の籠城戦を想定して営々と備蓄されていた莫大な量の食糧が焼失してしまい、このことがエルサレムの破滅を一気に加速させてしまいました。
というのはやがてローマの内戦が終結した後、再びローマ軍がユダヤに来襲し、エルサレムを包囲して兵糧攻めの構えに入った時点で、ユダヤ全土からの膨大な避難民を収容していたエルサレムが、完全に物流が途絶えてしまうことで深刻な食糧不足に陥るのは、時間の問題だったからです。
当初は武装勢力を自分たちの守護者と考えていたエルサレムの市民たちは絶望し、こんなことなら一刻も早くローマ軍の手に落ちた方がよほどましだ、とまで考えて城外へ脱出を試みる人々も多く現われました。
エルサレムの一般の市民たちから見れば、武装勢力の行なっていることは彼ら自身の支配権を強化するためのまさしく「恐怖政治」に他ならず、市民たちの多くはローマの支配のもとでそれなりに繁栄していた時代を懐かしみ、武装勢力が支配する時代が続くよりもむしろローマとの和平を希望していましたが、武装勢力は自分たちの支配の確立後、エルサレムの住民が城外へ脱出することを決して許しませんでした。
繰り返しになりますが、ルカ福音書21章21節(新共同訳)には、「都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。」という、主イエス・キリストの御言葉が記録されています。
結局のところ、マタイによる福音書24章15節の「荒廃をもたらす憎むべきもの」とは、神殿の聖所を根城にして同胞のエルサレム市民に対して暴虐の限りを尽くしていた、これらの武装勢力──すなわち無法集団のことだったわけです。
ちなみに、紀元六九年(エルサレムの滅亡の前年)春、三派が分立した武装勢力の指導者の一人、シモン・バル・ギオラがエルサレムに入城した際、その支持者たちはオリーブの枝を手にして歓呼の声を上げながら指導者を迎え入れました。
その三十数年前の春、主イエス・キリストが都エルサレムに入城なさる際の光景を、ヨハネによる福音書12章12節〜13節は、「祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞いて、棗椰子(なつめやし)の枝を手に取り、迎えに出ていき、そして叫び始めた、『ホザンナ。ほめたたえられるように、主の名によって来られる方、イスラエルの王』」と記しています。
また同じくヨハネによる福音書5章43節には、主イエス・キリストの御言葉として、「わたしは父の名によって来たのに、あなた方はわたしを受け入れない。もし、ほかの者が自分の名によって来れば、あなた方はその人を受け入れる」と書き記しています。
ローマ帝国への大反乱が勃発した紀元六六年秋、エルサレムを制圧すべく来襲したローマ軍は占領寸前にも関わらず、なぜかいったん撤退を始め、追撃戦を挑んだユダヤの反乱軍に襲撃され惨敗を喫しました。そして当時の世界最強勢力であったローマ軍を相手に予想外の大勝利を収めたユダヤ反乱軍の指導者たちは、そのまま勢いに乗じて都の支配権を握ったのです。
しかしそれ以前に、都に残存していたローマ軍をユダヤの反乱軍が降伏させた際、こともあろうに安息日にも関わらずローマ兵たちを虐殺して聖なる都エルサレムを血に染めた反乱軍の所業を目撃していた市民たちの中には、このようなことが起こったからには近い将来、恐ろしい惨劇が必ずや都を見舞うに違いないと悲観し、都を離れ去っていく者たちが続出しました。
不幸にして、やがて彼らの懸念は遠からず現実のものになりました。
ヨハネによる福音書11章55節に「多くの人々は身を清めるために、過越の祭りの前に、地方からエルサレムへ上った」とあるように、イエス・キリストの公生活の時代であれ、それからおよそ四十年後の大反乱の時代であれ、一世紀当時のユダヤ社会では、神殿が存在するエルサレムという都それ自体が清めの場であり大きな意味での神殿に含まれるという概念が存在し、支配的でした。しかし、ローマ帝国に対する大反乱の時代にエルサレムを支配していた武装勢力は、都を流血の巷に変えてしまい荒廃させてしまいました。
その事件からおおよそ四十年前には、ユダヤの人々はイエス・キリストに対して、安息日に病気を治したことについて、再三にわたり強く詰っていました──もしも安息日に病人を癒したことさえも批判の対象とされてしまうのならば、安息日に多くの人々を殺し、神が住まわれると見なされていた神殿の存在する聖なる都を血で汚(けが)してしまった所業は、どれほど神の御前では厳しく裁かれることでしょうか──エルサレムの心ある人々は、同じユダヤ人である反乱軍による行為に恐怖しました。
(ちなみにルカ福音書14章でイエス・キリストは、「あなた方の息子か牛が井戸に落ちたとき、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」(5節)と仰せになり、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちの問いに答えられました)
反乱軍が事実上エルサレムを支配し始めると、まず安息日の掟が上記のような経緯でないがしろにされ始め、そこからやがてはモーセの律法全体をないがしろにする無法集団の出現へと至ったわけです。
ローマの内戦が終結し、エルサレムの反乱鎮圧のためにローマ軍が再び戻って来ると、エルサレムの三つの武装勢力は急に正気に返ったかのように一致団結してローマ軍と戦いましたが、内部抗争で疲弊・消耗しきっていたエルサレムは遂にローマ軍に滅ぼされました。
本来ならばエルサレムには数年の籠城にも持ち堪えるほどの莫大な量の穀物が備蓄されているはずでしたが、武装勢力同士の内部抗争による放火で穀物の大部分が灰燼に帰してしまっており、またユダヤ各地からのあまりにも膨大な数の避難民をエルサレムが収容してしまっていたため、ローマ軍がひとたびエルサレムを包囲して兵糧攻めの構えに入ると、完全に物流が途絶えてしまった都はほどなく深刻な食糧不足に陥ってしまいました。
「都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。」という言葉の持つ意味を、あらためて深く考えさせられる、大惨事だったということです。
そして、エルサレムとその神殿とが滅亡したように、これらの三派の武装集団もまた、ローマ軍によって滅ぼし尽くされて終わりました。
ローマ帝国軍によるエルサレムそしてその神殿の滅亡を、まさに同時代の目撃者でもあったユダヤ人の歴史家ヨセフスは、ダニエル書に記された預言の成就であると見なしました。
ユダヤの歴史に関する著作においてヨセフスは、当然ながら預言者ダニエルについて言及し、またダニエル書の預言が成就したのは、歴史上、二度にわたっていることを、書き記しました。
すなわち一度目はアンティコス・エピファネス王の時代(ユダ・マカバイの時代)のことであり、そして二度目はローマ軍によるエルサレム(そして第二神殿)滅亡の時であると、ヨセフスは説明しました。
(注)別エントリー「予備的考察:いわゆる『エゼキエル戦争』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4584
紀元七〇年のエルサレム及び神殿の滅亡をもって、第二神殿の時代が終焉し、ダニエル書9章の「七十週」預言は完全に成就したわけです。
ちなみにマルコによる福音書13章14節には、「さて、『荒廃をもたらす憎むべきもの』が立つべきではない所に立つのを見たなら、──読者は悟れ──その時、ユダヤにいる人は山に逃げなさい。」とあります。
(新共同訳では「憎むべき破壊者」、バルバロ訳では「<荒らす者のいとわしいもの>」、ラゲ訳では「『いと憎むべき荒廃』」、日本聖書協会口語訳では「荒らす憎むべきもの」の表現です)
「立つべきではない所」とは、むろん神殿の聖所のことです。
(注)別エントリー「『ヘブライ人への手紙』が書かれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/2286
そしてルカによる福音書21章22節には、「それは書き記されていることがすべて成就される、報復の時だからである。」とあり、ここにおいて主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡(紀元七〇年)をもって旧約聖書の預言が全て成就し、旧約時代──すなわち、エルサレム神殿の時代が完全に終焉を迎えることを、明らかにされています。
(新共同訳では「書かれていることがことごとく実現する報復の日」、バルバロ訳では「書き記されているすべてのことの実現する報復の日」、ラゲ訳では「これ刑罰の日にして、書きしるされたること、すべて成就すべければなり」、日本聖書協会口語訳では「聖書にしるされたすべての事が実現する刑罰の日」の表現です)
ルカ21章22節には「書かれていること」という表現が用いられていますが、これはヨシュア記1章8節と同様、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する言い回しでした。
古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだったのです。
(注)別エントリー「『携挙』:ギリシア語聖書本文で徹底検証【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7753