シラ書」カテゴリーアーカイブ

主イエス・キリストがインマヌエルである理由

(このエントリーでは、聖書の日本語訳はフランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』によります)

イザヤ書7章14節には、「見よ、おとめが身籠(みごも)って男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」という、有名な、いわゆる「インマヌエル預言」の記述があり、伝統的にカトリック教会では、「インマヌエル」を主イエス・キリストのことであると理解し、また「おとめ」を聖母マリアのことであると理解してきた。

しかし、「インマヌエル」の意味に関するこの見解に、異論が存在するのもまた事実である。
そこでインマヌエル預言の構成と問題点について、このエントリーではもう一度振り返ってみる。

【1】神に依り頼むのか、アッシリアに依り頼むのか:アハズ王の人柄とその不忠実

ユダの王がアハズの時代、アラムの王レツィンとイスラエル(エフライム)の王ペカが連合してユダ王国の都エルサレムを攻撃しようとする(イザヤ書7章1節)。
アハズ王もその民も動揺するが(2節)、主は預言者イザヤを遣わしてアハズ王に動揺することはないと伝え(3節~6節)、敵方の野望が実現することはなく、その徴として「六十五年のうちにエフライムは粉砕され(8節)」ることを含めて預言された(7節~9節)。

神はアハズ王にさらなる徴を求めるように促され、吉兆であろうと凶兆であろうと、いずれの徴でも用意されているとも語られる。

◯イザヤ書7章10節~11節
「主はアハズに重ねて語られた、『お前の神、主に徴(しるし)を求めよ、陰府(よみ)の深みに、また天の高みに』」

しかし、アハズ王は、吉兆(「天の高み」の徴)と凶兆(「陰府の深み」の徴)のいずれの徴をも求めることを、拒絶する。

◯イザヤ書7章12節
「しかし、アハズは言った、『わたしは求めません。主を試みるようなことはしません』」

このアハズ王の「わたしは求めません」という拒否的な態度に対して、神は預言者イザヤを通してアハズ王に吉兆と凶兆の両方について説明されるが(13節以降)、しかし吉兆よりも凶兆の方が先に来ること(16節)、それもより明確かつ具体的な形でやって来ることを説明される(17節以降)。

アハズ王の人柄とその不忠実について、列王記下16章には次のような記述がある。

◯列王記下16章2節~3節
「彼は、父祖ダビデとは異なり、主が正しいと思われることは行わず、イスラエルの王たちの道を歩んだ」

イザヤ書7章12節でアハズ王が主の促しに対して拒む姿勢を示したので、神は確かに吉兆と凶兆の両方について説明されたものの、吉兆については簡潔にあまり詳しくないやり方で語られた一方で、凶兆についてはより詳細に語られ、しかも近未来に起こる切迫したものとしてはるかに具体的に語られた。

まず神は預言者イザヤを通して、「ダビデの家」という表現を使ってダビデの子孫を代表する立場であるアハズ王の不信仰を、非難された。

◯イザヤ書7章13節
「そこで、イザヤは言った、『ダビデの家よ、聞け。あなたたちは、人間を煩(わずら)わせるだけでは足りず、わたしの神までも煩わせるのか』」

続いて、アハズ王が神の促しを受け入れた場合に与えられる吉兆、すなわち「『天の高み』の徴」について語られる。

【2】「天の高み」の徴としてのインマヌエル預言と「アルマー」

それこそ、14節の「インマヌエル預言」である。

◯イザヤ書7章14節
「それ故、主ご自身が、あなたたちに徴を与えられる。見よ、おとめが身籠(みごも)って男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」

日本語訳聖書で通常「おとめ」と訳されている箇所の、原文のヘブライ語は「アルマー(עלמה – almah)」となっている。

古代よりキリスト教を批判しようとする人々によって繰り返された議論として「キリスト教の主張する聖母マリアの処女懐胎の話というのは、旧約聖書のイザヤ書7章14節の預言をキリスト教がヘブライ語からギリシア語に翻訳する際、誤って『若い女』を意味するヘブライ語(アルマー)を『処女』を意味するギリシア語(パルテノス)に訳したことに基づいている」という「誤訳説」がある。

「処女懐胎は誤訳」説に立ってキリスト教を批判する人々は、「ヘブライ語で『処女』を意味する単語は正しくは『ベトゥーラー』であり、『アルマー』は単に『若い女』という意味に過ぎない」と主張する。

それに対して、カトリックの伝統的なラテン語聖書であるヴルガタ訳を完成させた聖ヒエロニムスは、「確かに『処女』を意味するヘブライ語は『ベトゥーラー』に違いないが、『若い女』あるいは『娘』に相当するヘブライ語は、『ナアラー』というまた別の単語であり、『アルマー』というヘブライ語は単なる処女以上の意味を持つと考えられる」と主張し、「誤訳説」に反論している。

つまり現代式の表現で言えば、「『アルマー』とは、『ベトゥーラー』の“上位互換”ではないか」というのが聖ヒエロニムスの主張であるが、それを説明するために聖ヒエロニムスは、創世記24章のリベカに関するエピソードを引用する。

なぜなら、そのエピソードにおいてリベカは、「ナアラー」(14節、16節、28節、55節、57節)また「ベトゥーラー」(16節)そして「アルマー」(43節)という三種類のヘブライ語で表現されているからである。

「誤訳説」に対する聖ヒエロニムスによる反論の根拠となっている事実を、次に説明する。

この節で「おとめ」と日本語訳されている原文のヘブライ語「アルマー(עלמה – almah)」は、「アラーム(עלם – alam)」というヘブライ語の動詞に由来する女性名詞とされる。
そして、この動詞「アラーム」の意味は、「見られないようにする(隠れる、隠す)」あるいは「知られないようにする(秘密にする)」である。

聖ヒエロニムスは、この「アルマー」の意味を語根の動詞「アラーム」にさかのぼって「隠された女」「知られていない女」という二通りの意味に解釈し、ヘブライ語の「知る(‎ידע – yadah)」という動詞が含む特殊な意味(創世記4章1節:「アダムは妻エバを知った」 → 男が女を望んで関係を持つ)を踏まえ、「知られていない女」を「処女」と理解し、「隠された処女」という訳語に到達している。

レビ記18章では、上記の「知る」と同様に、男女が関係を持つことを意味する婉曲表現として、「隠し所を露わにする(לגלות ערוה)」という言い回しが繰り返される(フランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』参照)点をも考慮すると、

「隠された女(知られていない女)」=「男女関係を持ったことのない女」=「処女」

といった婉曲表現として考えるのは、むしろ極めて自然である。

以上より、「処女」を意味するギリシア語七十人訳の訳語(παρθένος – parthenos)と、ラテン語ヴルガタ訳の訳語(virgo)を、ヘブライ語原文に根拠付けることが可能であると説明できる。

ちなみに旧約聖書の創世記がヘブライ語からギリシア語に初めて翻訳されたのはイエス・キリストの誕生よりも二百年以上も前のことであったが(いわゆる七十人訳聖書)、この際に24章43節にあるヘブライ語「アルマー」の訳語として選ばれたギリシア語は「パルテノス」であった。
この翻訳の作業に当たったのは選りすぐりのユダヤ人の学者たちであって、当然ながらこの時代にキリスト教はまだ存在していない。

ヘブライ語の「アルマー」がギリシア語の「パルテノス」へと最初に翻訳されたのは、実は紀元前三世紀のことであった。
つまり、「キリスト教による誤訳」云々の主張それ自体が、最初から意味をなさないものだったということである。

(注)別エントリー「『マリアの処女懐胎は誤訳に基づく話』説は本当か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1524

【3】「陰府の深み」の徴としてのアッシリアの脅威

そして、「『天の高み』の徴」と、「あなたが恐れている二人の王」すなわちアラムとイスラエル(エフライム)の滅亡との、時系列的な前後関係が、次の15節以降で明らかにされる。

◯イザヤ書7章15節~16節
「その子は、悪を退け善を選ぶことを学ぶまで、凝乳と蜂蜜を食べるであろう。その子が、悪を退け善を選ぶことを学ぶ前に、あなたが恐れている二人の王の領土は、必ず捨てられる」

神は、「天の高み」そして「陰府の深み」という二つの表現で、神に依り頼む道を行くのか、それともアッシリアに依り頼む道を行くのか、よく考えるようにアハズ王に促されたのである。

「『陰府の深み』の徴」である凶兆、すなわちアッシリアの脅威に関しては、近未来の起こるべき事柄としてより具体的に語られている一方で、吉兆すなわちインマヌエルの到来については時系列的に凶兆の方が先に来るという以外(16節)、いつ起こるのかさえも定かでない出来事として、語られている。

15節の「凝乳と蜂蜜を食べる」という箇所は、申命記6章3節(「あなたは幸福になり、あなたの先祖の神、主が約束されたとおり、あなたは乳と蜜の流れる土地で大いに増える」)を踏まえて解釈すべきである。

◯申命記6章1節〜3節
「これはあなたたちの神、主が、あなたたちに教えよと命じられた命令と掟と法である。それは、あなたたちが渡って行って所有する土地で行うべきものである。それは、あなたも、あなたの子も孫も、生きているかぎりあなたたちの神、主を畏れ、わたしが命じる主の掟と命令を守り、あなたが生き永らえるためである。それ故、イスラエルよ、よく聞いて、それを守り行いなさい。そうすれば、あなたは幸福になり、あなたの先祖の神、主が約束されたとおり、あなたは乳と蜜の流れる土地で大いに増える」

◯出エジプト記3章8節
「わたしは彼らをエジプト人の手から救い出し、その地から広くて善い土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを導き上るために降(くだ)って来た」

またイザヤ書7章15節と16節の「悪を退け善を選ぶことを学ぶ」という箇所は、やはり申命記の次の箇所と関連している。

◯申命記1章38節〜39節
「お前に仕えているヌンの子ヨシュアが、そこに入る。彼を力づけよ、彼がその土地をイスラエルに受け継がせるからである。お前が略奪されると言った幼児たちや、まだ善悪を弁(わきま)えていない子供たちがそこに入る。わたしは、彼らにその土地を与え、彼らはそれを所有する」

ともあれアハズ王は結果的に神からの警告を無視し、アッシリアに依り頼む道を選択した。

イザヤ書17章3節までにダマスコ(現在のダマスクス)つまりアラム(現在のシリア)の首都の滅亡が預言されたが、後にこれが成就したことを列王記下16章9節が記しており、アラムに威嚇されたエルサレムのアハズ王が強国アッシリアを介入させアラムを滅亡させた。紀元前732年頃のことであった。

◯列王記下16章7節~9節
「アハズはアッシリアの王ティグラト・ピレセルに使者を遣わして言わせた、『わたしは、あなたの僕(しもべ)、あなたの子です。どうか上って来て、アラムの王とイスラエルの王の手からわたしを救い出してください。彼らはわたしに立ち向かっているのです』。アハズは主の神殿と王の宝物庫にあった金銀を取り出して、アッシリアの王に贈り物として送った。アッシリアの王はダマスコを攻撃し、それを占領した。彼はそこの住民を捕らえてキルに移し、レツィンを殺した」

確かに、イザヤ書17章は、アラム(ダマスコ)の滅亡をも預言している。

◯イザヤ書17章1節、3節
「ダマスコについての託宣。『見よ、ダマスコは、もはや町ではなくなり、瓦礫(がれき)の山となる』」
「『エフライムからは城壁のある町が、ダマスコからは王権が消(き)え失(う)せる。アラムの残りの者はイスラエルの栄光と同じ運命をたどる──主の言葉』」

アッシリアの王を引き込んだアハズ王の計略がもたらしたものは、しかし結果的には「ぬか喜び」に過ぎなかった。
神は、預言者イザヤを通して、このことをあらかじめアハズ王に告げられていた。それがイザヤ書7章17節以下の預言である。

◯イザヤ書7章17節
「主は、あなたとあなたの民とあなたの祖先の家の上に、エフライムがユダから分かれて以来遭遇したことのないような日々を到来させる。それはアッシリアの王による」

つまりこの17節以降が、凶兆すなわち「『陰府の深み』の徴」の具体的な説明となるのである。

「陰府の深み」の中の「陰府」という言葉が象徴するのは、イザヤ書5章において説明されている通り、神の教えに従わおうとしない王や民に対して、神は遠方の国民を起こして、王や民が安逸を貪っている国に攻め込ませることによって懲罰を与える、ということである。

◯イザヤ書5章11節~15節
「災いだ、朝早く起きて強い酒を欲しがり、夜遅くまで、ぶどう酒に身を焼く者は。酒宴には竪琴(たてごと)と琴、タンバリンと笛とぶどう酒がある。しかし、主の業に目を留めず、その手の働きを見ようともしない。それ故、わたしの民は、無知のために捕らえられていく。貴族たちは飢えた者となり、群衆は渇きのために干からびる。それ故、陰府は喉を大きく開け、その口を限りなく開く。エルサレムの高貴な者もその群衆も、そのどよめきと歓声とともにそこに落ち込む。人間は低くされ、人は卑しくされる。高ぶる者の目は低くされる」

5章14節の「陰府」が7章11節の「陰府」を説明するものであることは、言うまでもない。
イザヤ書5章の預言は、まさにアッシリアによってもたらされる大いなる災厄をも、暗示しているのである。

結局のところアッシリア王に依り頼むというのは最悪の結果に終わる選択肢であるということを、神は暗示しておられたのである。

【4】神はご自分の民をどのようにして罰せられたのか

神が遠方の国民を起こして侵略させ、道を踏み外した王や民に懲罰を与えられる、とは旧約聖書で随所に見られる光景である。

◯申命記8章19節~20節
「万一あなたが、あなたの神、主を忘れて、ほかの神々に従い、それに仕えて、礼拝するようなことがあれば、わたしは、今日(きょう)、あなたたちに警告する。あなたたちは必ず滅びるに違いない。主が、あなたたちの前から滅ぼされた国々のように、あなたたちも必ず滅びる。あなたの神、主の声に聞き従わないからである」

◯申命記28章47節~52節
「あなたがすべてに豊かであった時に、あなたの神、主に心からの喜びと楽しみをもって仕えようとしなかったので、あなたは飢え、渇き、裸で、すべてに欠乏し、主があなたに遣わされる敵に仕えるようになる。主はあなたに鉄の首枷をはめ、ついにはあなたを滅ぼされるであろう」
「主は遠く地の果てから、一つの国民を、禿鷲が飛びかかるように、あなたに向けられる。あなたにはその民の言葉が理解できない。その民は無慈悲で、老人を顧みず、幼い者を憐れまない。その民は、あなたの家畜が産むものや土地の実りを食い尽くし、ついにはあなたは滅ぼされるであろう。また、穀物も、新しいぶどう酒も、油も、群れの中の子牛も、群れの中の子羊も、あなたには何一つ残さず、ついにはあなたを滅ぼし去るであろう。その民は、あなたのすべての町であなたを攻め囲み、ついにはあなたが全土に築いて頼みとした高くて堅固な城壁を打ち倒すであろう。その民は、あなたの神、主があなたに与えてくださった全土の町のすべてを攻め囲む」

◯列王記上9章6節~9節
「もしお前たちとその子孫がわたしに背いて従わず、わたしがお前たちの前に置いた命令と掟を守らずに、ほかの神々の所に行って仕え、これを礼拝するなら、わたしはわたしが与えた土地からイスラエルを断ち、わたしの名のために聖別した神殿を、わたしの見えない所に投げ捨てる。こうしてイスラエルはすべての民の間で物笑いの種、あざけりの的となる。また、この神殿は廃墟と化し、そのそばを通り過ぎる者はみな驚いて口笛を吹き、『この土地とこの神殿に、主はなぜこのようなことをされたのか』と問うであろう。すると人々は答えて言うであろう、『あの人たちは自分たちの先祖をエジプトの地から導き出した彼らの神、主を捨てて、ほかの神々にすがって、礼拝し、仕えた。それ故、主はこのすべての災いを彼らの上に下されたのだ』」

◯歴代誌下7章19節~22節
「しかし、もしお前たちがわたしに背いて、お前たちの前に置いた掟と命令を捨て、ほかの神々のもとに行って仕え、礼拝するなら、わたしは与えた土地から彼らを抜き取る。またわたしの名のために聖別した神殿を、わたしの見えない所に投げ捨てる。そして、これをすべての民の間で物笑いの種、あざけりの的とする。またこの神殿は、そのそばを通り過ぎる者すべてにとってそびえていたが、荒れ果てる。人は『この土地とこの神殿に、主はどうしてこのようなことをされたのか』と問うであろう。すると人々は答えて言うであろう、『あの人たちは、エジプトの地から導き出した彼らの先祖の神、主を捨て、ほかの神々にすがって、礼拝し、これに仕えた。それ故、主はこのすべての災いを彼らの上に下されたのだ』」

神は、「天の高み」そして「陰府の深み」という二つの表現で、神に依り頼む道を行くのか、それともアッシリアに依り頼む道を行くのか、よく考えるようにアハズ王に促し、アッシリアに頼ってアラムとイスラエル(エフライム)の同盟軍による脅威を退けたとしても、やがて次はアッシリアそれ自体がより深刻な脅威として重くのしかかって来ることを、警告されたのである。

◯歴代誌下28章16節、19節~22節
「そのころアハズ王は、支援を求めてアッシリア王たちに使者を遣わした」
「主は、イスラエルの王アハズの故にユダを低くされた。アハズがユダを堕落するがままにし、主に対して不忠実を極めたからである。アッシリアの王ティグラト・ピレセルはやって来たが、アハズを助けず、むしろ彼を苦しめた。アハズは主の神殿、王宮、高官の家から財物を徴収してアッシリア王に差し出したが、何の助けにもならなかった」
「この苦しみの中で、アハズはますます主に対して不忠実になっていった」

アハズ王がアッシリアに依存する道を選択したことにより(つまり結果として神からの促しを拒絶したことにより)、凶兆の方はその近未来には現実のものとなってしまった一方で、吉兆すなわちインマヌエルの到来に関しては、いつのことになるかもよくわからない出来事として、事実上延期されてしまった。しかし、将来の淡い希望としては、確かに残されたのである。

◯列王記下16章20節
「アハズは先祖とともに眠りに就き、先祖とともにダビデの町に葬られた。その子ヒゼキヤが彼に代わって王となった」

◯歴代誌下28章27節
「アハズは先祖とともに眠りに就き、人々は彼をエルサレムの町に葬った。人々は彼をイスラエルの王の墓には入れなかった。その子ヒゼキヤがアハズに代わって王となった」

【5】「アッシリア王の脅威の到来」を告げる男の子の方が、実際に先に産まれた

インマヌエルの到来に先んじてアッシリアの脅威が「ダビデの家」の上に重くのしかかって来るということが明らかにされたとはいえ、「アッシリア王の脅威の到来」と「インマヌエルの到来」との間の時間的なギャップが何年なのか何十年なのか何百年なのか、イザヤの預言ではまだ明らかにされていないが、イザヤ書8章3節には「インマヌエル」ではない別の男の子の出産についても、語られている。

◯イザヤ書8章3節
「わたしは女預言者に近づき、彼女は身籠って男の子を産んだ。主はわたしに仰せになった、『この子をマヘル・シャラル・ハシュ・バズと名づけよ』」

フランシスコ会聖書研究所訳の欄外の注に、「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」の意味として、「分捕りは速く、略奪は迅速(である)ため」とある。

続く4節には、この男の子の誕生とアッシリア王の脅威との前後関係についても語られている。

◯イザヤ書8章4節
「この子が『お父さん、お母さん』と呼べるようになる前に、ダマスコからはその富が、サマリアからはその分捕り品が、アッシリアの王の前に運び去られるからだ」

アラムとイスラエル(エフライム)とがアッシリアによって滅ぼされる時期が遠からぬ未来であることが、この箇所の預言で明らかにされたのである。

◯列王記下17章1節、5節~6節
「ユダの王アハズの治世第十二年に、エラの子ホシェアがサマリアでイスラエルの王となり、九年間王位にあった」
「アッシリアの王はこの国全土に攻め上った。彼はサマリアに攻め上り、三年の間これを包囲した。ホシェアの治世第九年に、アッシリアの王はサマリアを占領し、イスラエル人を捕囚としてアッシリアに移し、ヘラ、ゴザンを流れるハボル川のほとり、メディアの町々に住まわせた」

ここにおいて、「凶兆」の方は現実のものとなってしまったのである。

再確認すると、インマヌエル預言がなされたのは「ウジヤの子、ヨタムの子であるユダの王アハズの治世」(イザヤ書7章1節)のことであった。
このアハズ王について、列王記下と歴代誌下には、それぞれ次のように記述がある。

◯列王記下16章2節
「彼は二十歳で王となり、十六年間エルサレムで王位にあった」

◯歴代誌下28章1節
「アハズは二十歳で王となり、十六年間エルサレムで王位にあった」

【6】インマヌエルはアハズ王の子のヒゼキヤ王なのか

そしてアハズ王の子のヒゼキヤ王についても、列王記下と歴代誌下に、それぞれ次のように記述がある。

◯列王記下18章1節~2節
「イスラエルの王、エラの子ホシェアの治世第三年に、ユダの王アハズの子ヒゼキヤが王となった。彼は二十五歳で王となり、二十九年間エルサレムで王位にあった」

◯歴代誌下29章1節
「ヒゼキヤは二十五歳で王となり、二十九年間エルサレムで王位にあった」

ヒゼキヤが王となったのは二十五歳の時だが、その父のアハズ王の治世は十六年間であったから、アハズ王からヒゼキヤ王への継承が問題なく行われた場合は、単純計算でアハズが王となった時には、ヒゼキヤは既に九歳になっていたはずである。

つまり「見よ、おとめが身籠(みごも)って男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」という「インマヌエル預言」がなされた時点において、ヒゼキヤはとっくの昔に生まれていたということになる。

「インマヌエル預言」は、あくまでもアハズが王であった時代になされた預言だからである。

以上から、「インマヌエル=ヒゼキヤ王」説は時系列的に成立しない、と結論づけることも可能となる。

しかしながら、ヒゼキヤ王はインマヌエルには該当しないにせよアハズ王の不忠実とは全く正反対の態度を神に示した。

◯列王記下18章3節
「彼は父祖ダビデが行ったように、主が正しいと思われることをことごとく行った」

◯列王記下18章5節~7節
「ヒゼキヤはイスラエルの神、主を信頼した。すべてのユダの王の中で彼のような王は、彼の後にも先にもいなかった。彼は主につき従い、主に背いて離れることはなく、主がモーセに与えられた命令を守った。主は彼とともにおられ、彼が何を企てても成功した。彼はアッシリアの王に反逆し、服従しなかった」

◯シラ書48章17節
「ヒゼキヤは自分の町を固め、市内に水を引き、鉄の工具をもって切り立つ岩をくりぬき、用水池を造った」

◯シラ書49章4節
「ダビデとヒゼキヤとヨシヤとを除いて、ほかの王たちはみな罪に罪を重ねた。彼らはいと高き方の律法を捨てた。こうして、ユダの王室は絶えてしまった」

ヨシヤ王の最期については、次の記述がある。

◯列王記下23章29節
「彼の治世に、エジプトの王ファラオ・ネコがアッシリアの王に向かって、ユーフラテス川のほうへ上って来た。ヨシヤ王は彼を迎え撃ちに出た。ネコはメギドで彼に出会うと彼を殺した」

インマヌエルの候補としては、ヨシヤ王も該当しそうにはないのである。

【7】インマヌエルはイザヤ書の8章にも、残された淡い希望として登場する

話をイザヤ書の8章に戻すと、8節に再び「インマヌエル」が登場する。

◯イザヤ書8章5節~8節
「主はわたしに重ねて語られた、『この民は、静かに流れるシロアの水を拒み、レツィンとレマルヤの子を喜んでいる。それ故、見よ、主はユーフラテス川の力強く大量の水を、アッシリアの王とそのすべての栄光を、彼らの上に襲いかからせる。それはすべての流れに溢(あふ)れ、そのすべての岸を越えてユダに押し寄せ、氾濫(はんらん)して首にまで達する。その広げた翼は、インマヌエルよ、お前の国土を覆い尽くす』」

7章14節に続いて、8章8節に再び「インマヌエル」という表現が登場するのだが、文脈からは結局、いったんはアッシリア王の制圧下に置かれるであろう版図の中にこそ、将来インマヌエルが誕生する国土が存在するということが明らかにされているのである。しかし、前述のシラ書49章4節にある通り、「ユダの王室」からは名君といえるヒゼキヤとヨシヤすら、「インマヌエル」の候補としてはスケールが小さい存在なのである。

◯イザヤ書8章9節~10節
「諸民族よ、連合せよ、だが、粉砕される。遠い国々よ、みな耳を傾けよ。武装せよ、だが、粉砕される。武装せよ、だが、粉砕される。戦略を練れ、だが、挫折する。事を構えよ、だが、実現しない。『神はわれらとともにおられる』」からだ」

10節の「神はわれらとともにおられる」という部分は、ヘブライ語では「インマヌエル」という表現となる。
つまり、イザヤ書の中で、「インマヌエル」というヘブライ語は、三か所(7章14節、8章8節、8章10節)に登場するのである。

◯イザヤ書8章16節
「わたしは証言を束ね、わたしの弟子たちの中に教えを封印させる」

この節の「封印」という記述からは、インマヌエル預言はイザヤ書の中の登場人物においては成就しないことがうかがわれ、この預言の実現が遠い未来にまで延期されたことが暗示されている。

イザヤ書36章から37章までの間で、ヒゼキヤ王の時代にアッシリア王の脅威が現実的なものとなり、他ならぬイザヤを助言者としたヒゼキヤ王が、「主の使い(37章36節)」の超自然的な助力も得て遂にアッシリア王を撃退するに至る歴史が叙述されているが、インマヌエル預言がこのことをもって成就したなどとは、イザヤ書にもシラ書にもどこにも暗示すらされていない。

繰り返すが、インマヌエル預言がなされたのは「アハズの治世(イザヤ書7章1節)」のことだが、ヒゼキヤはアハズが王になった時には単純計算で既に九歳になっており、このことだけでも、ヒゼキヤがインマヌエルに該当しないのは明らかである。

インマヌエルの到来は、イザヤ書の時代からは、さらにはるか遠い未来まで待たねばならない出来事なのである。

アッシリア王の脅威の到来からはるか後代へとインマヌエルの到来は延期されてしまったのだが、しかしインマヌエル預言自体は一度も撤回されていない。イザヤ書8章でもさらにインマヌエルが二度も言及されるのは、その証しともいえる。

◯イザヤ書8章17節
「わたしは主を待ち望む。ヤコブの家からみ顔を隠しておられる方を。わたしは主に望みをかける」

【8】「力ある神」「永遠の父」と呼ばれる「ひとりの男の子」がやがて誕生する

イザヤ書8章の最後の節から、さらに希望のメッセージが始まっていく。

◯イザヤ書8章23節~9章2節
「先に、ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダンの彼方、異邦人のガリラヤは栄光を受ける。闇の中を歩んでいた民は、大いなる光を見た。暗闇の地に住んでいた者の上に、光が輝いた。あなたは国を大きくし、その喜びを増し加えられた。人々はみ前で喜んだ。刈り入れを喜ぶように、戦利品を分け合って喜ぶように」

(注)9章1節の当初の表現「お前」は「あなた」に訂正されている。

イザヤ書7章14節の「インマヌエル」と9章5節の「ひとりのみどりご」「ひとりの男の子」が同一人物を指しているものという前提に立つならば、当然インマヌエルは神性を有する存在であると考えられる。
なぜなら9章5節にはその「ひとりの男の子」の四つの呼称が記されているが、その二番目には「力ある神」とあるからである。
つまり「インマヌエル」は単なる人間ではなく、「人の子」(人間)であると同時に、「神の子」なのである。

◯イザヤ書9章5節~6節
「まことに、ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威がその肩にあり、その名は『驚くべき助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し、平和は絶えることがない。ダビデの王座とその王国は、公正と正義によって立てられ、今よりとこしえまで支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」

「ひとりの男の子」の四つの呼称のうち、三番目には「永遠の父」とあるが、主イエス・キリストは福音書の中で次のように語られていたはずである。

◯マタイによる福音書23章9節
「誰(だれ)であれ、地上の者を『父』と呼んではならない。あなた方の父はただひとり、天におられる方だけである」

イザヤ書9章5節の「ひとりのみどりご」「ひとりの男の子」がマタイ福音書23章9節の「天におられる方」と同格の存在であると考える以外に、答えはないのである。

なぜなら、イザヤ書9章5節の「力ある神」「永遠の父」などの名で呼ばれるにふさわしい存在は、やはり「天におられる方」と同格、すなわち「主」でなければならないからである。

◯イザヤ書8章13節
「万軍の主のみを聖とし、この方を畏れ敬い、この方を畏れ、おののけ」

ヘブライ語の「主」という表現が多くの場合に「神」すなわち「唯一の真(まこと)の神」を指すのと同様に、イザヤ書9章の「永遠の父」という箇所の「父」は、明らかに「唯一の真(まこと)の神」を意味している。
旧約聖書の中から、「父」という表現を用いて「唯一の真(まこと)の神」を指している一例を、次に示す。

◯申命記32章6節
「愚かで、知恵のない民よ、このようにして主に報いるのか。主はあなたを造られた父、主こそあなたを造り、堅く立てられた方ではなかったか」

また、次の一例は、ヘブライ語の「父」という表現が「創造主」をも意味していることを、端的に示すものである。

◯イザヤ書64章7節
「しかし今、主よ、あなたこそわたしたちの父なのです。わたしたちは粘土、あなたはわたしたちの陶工、わたしたちはみな、あなたの手で作られたもの」

マラキ書においても、「父」という表現が「創造主」「唯一の真(まこと)の神」を意味する箇所が見受けられる。

◯マラキ書2章10節
「わたしたちみなに、ただひとりの父がいるのではないか。ただひとりの神が、わたしたちを創造したのではないのか。なぜ、わたしたちは互いに裏切り合って先祖の契約を汚(けが)すのか」

次に示すヨハネ福音書10章30節は、「唯一の真(まこと)の神」としての主イエス・キリストの神性を端的に表現している。

◯ヨハネによる福音書10章30節
「わたしと父とは一つである」

◯申命記6章4節
「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神、主こそ、唯一の主である」

◯ヨハネによる福音書10章37節~38節
「わたしが父の業を行っていないなら、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているなら、たとえわたしを信じなくとも、業を信じなさい。そうすれば、父がわたしのうちにおられ、わたしが父のうちにいることを、あなた方は知り、悟るであろう」

ヨハネ福音書10章38節(そして30節)において、主イエス・キリストは、「父である神」と「子である神」との間には「神」としての本質的な差異が全く存在しないということを、明言しておられる。

◯ヨハネによる福音書14章6節~11節
「イエスは仰せになった、『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことはできない。あなた方がわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。いや、もう今から父を知っており、また、すでに父を見たのである』。フィリポがイエスに言った、『主よ、わたしたちに御父(おんちち)をお見せください。それで十分です』。イエスは仰せになった、『フィリポ、こんなに長い間、あなた方とともにいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。なぜ、『わたしたちに御父をお見せください』と言うのか。わたしが父のうちにおり、父がわたしのうちにおられることを、あなたは信じないのか。わたしがあなた方に言う言葉は、自分勝手に語っているのではない。わたしのうちにおられる父が、ご自分の業を行っておられるのである。わたしが父のうちにおり、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。それができないなら、業そのものによって信じなさい」

◯ヨハネによる福音書1章11節~14節
「み言葉は自分の民の所に来たが、民は受け入れなかった。しかし、み言葉を受け入れた者、その名を信じる者には、神の子となる資格を与えた。彼らは、血によってではなく、人間の意志によってでも、男の意志によってでもなく、神によって生まれた。み言葉は人間となり、われわれの間に住むようになった。われわれはこの方の栄光を見た。父のもとから来た独り子としての栄光である。独り子は恵みと真理に満ちていた」

【9】イザヤ書の預言と主イエス・キリスト

ヨハネ福音書の5章には、主イエス・キリストの次のような御言葉が記述されている。

◯ヨハネによる福音書5章39節~40節
「あなた方は聖書を調べている。その中に永遠の命があると、思い込んでいるからである。だが、その聖書は、わたしについて証しするものである。それなのに、あなた方は、命を得るために、わたしの所に来ようとはしない」

また、ルカ福音書24章には、次のように書かれている。

◯ルカによる福音書24章27節
「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたってご自分について書かれていることを、二人に説明された」

アハズ王の時代のインマヌエル預言からおよそ七百年、主イエス・キリストの到来に至るまでの間、その預言に該当する存在は登場することがなかったのである。

◯使徒言行録13章27節
「エルサレムに住む人たちとその指導者たちは、このイエスを認めず、また安息日ごとに読まれる預言者たちの言葉をも理解せず、この方を罪に定めて、その預言を成就させました」

ところで、イザヤ書9章5節で「驚くべき助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる「ひとりの男の子」の誕生について預言されたが、11章にはさらに次のように預言されている。

◯イザヤ書11章1節~5節、10節~11節
「エッサイの切り株から、一つの芽が萌え出で、その根から、一つの若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊が留まる。知恵と悟りの霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。彼は、主を畏れ敬うことを喜び、目に見えるところによって裁かず、耳にするところによって判決を下さず、正義をもって、弱い人のために裁きを行い、公正をもって、地上の貧しい人のために判決を下す。正義はその胴の帯となり、真実はその腰の帯となる」
「その日が来れば、エッサイの根は諸民族の旗として立てられ、諸国は彼を求め、彼の住まう所は栄光に輝く。その日が来れば、主は再びその手を伸ばし、ご自分の民の残りの者を取り戻される。アッシリア、エジプト、上エジプト、クシュ、エラム、シンアル、海沿いの島々から、残されていた者を取り戻される。主は、諸国に向かって旗を掲げ、イスラエルの追放された者、ユダの散らされた者を、地の四方の果てから集められる」

◯ローマの人々への手紙15章12節
「また、そのうえに、イザヤは、『エッサイのひこばえが現れる、異邦人を治めに立ち上がる方である。異邦人はこの方に望みをかける』と言っています」

◯ルカによる福音書2章28節~32節
「シメオンはその子を抱きあげ、神をほめたたえて言った、『主よ、今こそ、あなたはお言葉のとおり、あなたの僕(しもべ)を、安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目で、あなたの救いを見たからです。この救いは、あなたが万民の前に備えられたもの、異邦人を照らす光、あなたの民イスラエルの栄光です』」

やはり主イエス・キリストこそがイザヤ書のインマヌエルというのが、キリスト教の立場である。

【10】インマヌエルのヘブライ語表記の問題

イザヤ書7章14節の有名な預言、及びそれを引用したマタイ福音書1章23節、そしてイザヤ書8章の2か所(8節と10節)に登場する「インマヌエル(“עמנו אל” – Immanuel)」には、大きく分けて二種類の(二通りの)解釈の仕方がある。

ここでは、マタイ福音書1章23節におけるインマヌエルの二種類(二通り)の解釈について考察する。

まず、「インマヌエル」とそれ以外の人名や天使名のヘブライ語表現(表記)とで差異はないか、以下に比較する。

・「インマヌエル(Immanuel)」 “עמנו אל”
 “immanu”(עמנ)と“el”(אל)との間は空けられている(空白が存在する)ことから、この場合は二語で(二つの単語で)表現されていると解釈できる。
 すなわち、「インマヌ・エル(Immanu-El)」と表現するのがより適切であると考えられる。

〔注〕伝統的なマソラ本文では二語だが、クムラン写本(死海写本)では一語で表現されている。

・「イスラエル(Yisrael)」 ”ישראל”
 一語で(一つの単語で)表現されている。

・「サムエル(Shemuel)」 ”שמואל”
 一語で表現されている。

・「ヨエル(Yoel)」 ”יואל”
 一語で表現されている。

・「エゼキエル(Yechezqel)」 ”יחזקאל”
 一語で表現されている。

・「ダニエル(Daniel)」 ”דניאל”
 一語で表現されている。

・「ミカエル(Mikael)」 “מיכאל”
 一語で表現されている。

・「ガブリエル(Gabriel)」 ”גבריאל”
 一語で表現されている。

・「ラファエル(Rephael)」 “רפאל”
 一語で表現されている。

【11】マタイ福音書におけるインマヌエルの二種類(二通り)の解釈

(A)インマヌエルを人名の一つとして捉える解釈

この解釈によればインマヌエルは「神はわたしたちとともにおられる(英語の”God is with us”)」という意味の人名ということになり、「インマヌエル」とは「イスラエル」「サムエル」「エゼキエル」「ダニエル」「ヨエル」といった人名あるいは「ミカエル」「ガブリエル」「ラファエル」といった天使名と同様に、被造物を表わす固有名詞の中で神にちなんだものの一つに過ぎない、ということになってしまう。

フランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』(サンパウロ)では、欄外の注において、「イスラエル」の意味を「神は闘う」あるいは「彼は神と闘う」と説明し(創世記32章)、また「サムエル」の意味を「神に願って(与えられた)」(サムエル記上1章)、「ヨエル」を「主は神」(ヨエル書1章)、「ミカエル」を「誰が神のような者か」(ダニエル書10章)、「ガブリエル」を「神の人」または「神はわたしの勇士」(ダニエル書8章)、そして「ラファエル」を「神の薬」と説明している(トビト記5章)。

またバルバロ訳聖書(講談社)の「解説」によれば、「エゼキエル」の意味は「神は強い」あるいは「神は強めてくださる」、「ダニエル」の意味は「神はさばくもの」あるいは「私の神は強い」と説明されている。

「神はわたしたちとともにおられる」という解釈(翻訳)は、カトリック教会に関係する日本語訳聖書で見ると、マタイ福音書1章23節の解釈(Εμμανουηλ – Emmanouēl)としては、新共同訳(日本聖書協会)及びフランシスコ会聖書研究所訳そしてバルバロ訳が、この解釈を採っている。

◯マタイによる福音書1章23節【後半部分】(新共同訳)
「この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」

◯マタイによる福音書1章23節【後半部分】(フランシスコ会聖書研究所訳)
「この名は、『神はわたしたちとともにおられる』という意味である。」

◯マテオによる福音書1章23節【後半部分】(バルバロ訳)
「その名は『神はわたしたちとともにまします』という意味である。」

(B)インマヌエルを神としての称号の一つとして捉える解釈

しかし、インマヌエルを人名の一つとしてではなく神としての称号の一つ、すなわち「わたしたちとともにおられる神(英語の”God with us”, “With us God”)」という意味で捉える、もう一つ別の解釈も存在する。

イザヤ書7章14節の「インマヌエル」と9章5節の「ひとりのみどりご」「ひとりの男の子」が同一人物を指しているものという前提に立つならば、当然インマヌエルは神性を有する存在であると考えられる。
なぜなら9章5節にはその「ひとりの男の子」の四つの呼称が記されているが、その二番目には「力ある神」とあるからである。

◯イザヤ書9章5節~6節(フランシスコ会聖書研究所訳)【再掲】
「まことに、ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威がその肩にあり、その名は『驚くべき助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し、平和は絶えることがない。ダビデの王座とその王国は、公正と正義によって立てられ、今よりとこしえまで支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」

「ひとりの男の子」の四つの呼称のうち、三番目には「永遠の父」とあるが、主イエス・キリストは福音書の中で次のように語られていたはずである。

◯マタイによる福音書23章9節(フランシスコ会聖書研究所訳)【再掲】
「誰であれ、地上の者を『父』と呼んではならない。あなた方の父はただひとり、天におられる方だけである」

イザヤ書9章5節の「ひとりのみどりご」そして「ひとりの男の子」がマタイ23章9節の「天におられる方」と同格の存在であると考える以外に、答えはない。

◯イザヤ書8章13節
「万軍の主のみを聖とし、この方を畏れ敬い、この方を畏れ、おののけ」

ヘブライ語の「主」という表現が多くの場合に「神」すなわち「唯一の真(まこと)の神」を指すのと同様に、イザヤ書9章の「永遠の父」という箇所の「父」は、明らかに「唯一の真(まこと)の神」を意味している。
旧約聖書の中から、「父」という表現を用いて「「唯一の真(まこと)の神」を指している一例を次に示す。

◯申命記32章6節【再掲】
「愚かで、知恵のない民よ、このようにして主に報いるのか。主はあなたを造られた父、主こそあなたを造り、堅く立てられた方ではなかったか」

次に示すヨハネ福音書10章30節は、「唯一の真(まこと)の神」としての主イエス・キリストの神性を端的に表現している。

◯ヨハネによる福音書10章30節【再掲】
「わたしと父とは一つである」

次に示すヘブライ人への手紙1章3節では、ヨハネ10章30節を別の表現で説明している。

◯ヘブライ人への手紙1章3節
「御子は神の栄光の輝き、神の本性の完全な具現であり、その力ある言葉をもって万物を支え、罪の清めを成し遂げた後、いと高き所において、威光ある方の右の座におつきになりました」

この節では、「御子」である主イエス・キリストについて、「神の本性の完全な具現」という表現を用い、その神性を明確に宣言している。

カトリック教会に関係する聖書では、マタイ福音書1章23節の解釈において、E・ラゲ訳(中央出版社)がこちらのインマヌエルを神としての称号の一つとして捉える解釈を採用しているが、実はマタイ福音書のギリシア語本文(”ἡμῶν ὁ θεός” – “hēmōn ho Theos”)、また伝統的なラテン語ヴルガタ訳(”Nobiscum Deus”)、そしてこのヴルガタ訳に最も忠実な英訳聖書”Douay-Rheims Bible”の表現(”God with us”)の三者もまたいずれも、こちらの解釈を採用しているのである。

◯マテオのイエズス・キリスト聖福音書1章23節【後半部分】(E・ラゲ訳:中央出版社)
「エンマヌエルとは、われらとともにまします神の義(ぎ)なり。」

〔注〕E・ラゲ訳ではインマヌエルを「エンマヌエル」と表記している。

E・ラゲ訳では「エンマヌエル」という言葉の「義(ぎ)」つまり「意味」について、「われらとともにまします神」というように神としての称号の一つと捉えており、人名とは解釈していない。
こちらの「われらとともにまします神」という解釈(称号としての解釈)は、インマヌエル自身が「神」すなわち神性を有する存在であるという事実に、力点が置かれている。

従ってマタイ福音書1章23節におけるインマヌエルの解釈において、ギリシア語本文をより適切に捉えているのはどちらか、またカトリック教会の伝統をより忠実に反映しているのはどちらかと言えば、「神はわたしたちとともにおられる」つまり人名として捉える立場よりも、「わたしたちとともにおられる神」つまり神としての称号として捉える立場の方である、と考えられる。

ヘブライ語のマソラ本文がインマヌエルを「インマヌ・エル(“עמנו אל” – “Immanu-El”)」と二語で表現し、一語で表現される他の人名や天使名などとは歴然と区別していることも、マタイ福音書の解釈を間接的ながら支持しているものと考えることができる。

【12】「わたしたちとともにおられる神」とは実際どういうことなのか

(以下の聖書の日本語訳は『聖書』フランシスコ会聖書研究所訳注によります)

◯マタイによる福音書18章20節
「二人また、三人がわたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいる」

◯マタイによる福音書28章18節~20節
「イエスは弟子たちに近づき、次のように仰せになった、『わたしには天においても地においても、すべての権能が与えられている。それ故、あなた方は行って、すべての国の人々を弟子にしなさい。父と子と聖霊の名に入れる洗礼を授け、わたしがあなた方に命じたことを、すべて守るように教えなさい。わたしは代(よ)の終わりまで、いつもあなた方とともにいる』」

◯マルコによる福音書3章14節〜15節
「このように、イエスは十二人を選び、使徒とお呼びになった。それは、この十二人がご自分とともにいるためであり、また悪霊(あくれい)を追い出す権能を授けて宣教に遣わすためであった」

◯ヨハネによる福音書1章11節~14節【再掲】
「み言葉は自分の民の所に来たが、民は受け入れなかった。しかし、み言葉を受け入れた者、その名を信じる者には、神の子となる資格を与えた。彼らは、血によってではなく、人間の意志によってでも、男の意志によってでもなく、神によって生まれた。み言葉は人間となり、われわれの間に住むようになった。われわれはこの方の栄光を見た。父のもとから来た独り子としての栄光である。独り子は恵みと真理に満ちていた」

◯ヨハネによる福音書14章2節~3節
「わたしの父の家には、住む所がたくさんある。そうでなければ、あなた方のために、場所を準備しに行くと言ったであろうか。わたしが行って、あなた方のために場所を準備したら、戻ってきて、あなた方をわたしのもとに迎えよう。わたしのいる所に、あなた方もいるようになるためである」

◯ヨハネによる福音書14章9節【再掲】
「イエスは仰せになった、『フィリポ、こんなに長い間、あなた方とともにいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。なぜ、『わたしたちに御父をお見せください』と言うのか」

◯ヨハネによる福音書14章15節、21節、23節
「あなた方はわたしを愛しているなら、わたしの掟を守るはずである」
「わたしの掟を自分のものとし、それを守る人、その人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現す」
「わたしを愛する者は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人をお愛しになり、わたしたちはその人の所に行き、ともにそこに住む」

◯ヨハネによる福音書15章1節~5節、9節〜10節、12節、14節、17節
「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は栽培者である。わたしにつながれていて、実を結ばない枝はすべて、父がこれを切り取られる。しかし、実を結ぶものはすべて、もっと豊かに実を結ぶように、父がきれいに刈り込んでくださる。わたしがあなた方に話したことばによって、あなた方はすでに清くされている。わたしのうちに留(とど)まっていなさい。そうすれば、わたしもあなた方のうちに留まる。ぶどうの枝が木につながれていなければ、枝だけで実を結ぶことはできない。それと同じように、あなた方もわたしのうちに留まっていなければ、実を結ぶことはできない。わたしはぶどうの木であり、あなた方は枝である。人がわたしのうちに留まっており、わたしもその人のうちに留まっているなら、その人は多くの実を結ぶ。わたしを離れては、あなた方は何もすることができないからである」
「父がわたしを愛してくださったように、わたしもあなた方を愛してきた。わたしの愛のうちに留まりなさい。あなた方がわたしの掟を守るなら、わたしの愛のうちに留まることになる。わたしが父の掟を守って、その愛のうちに留まっているのと同じである」
「わたしがあなた方を愛したように、あなた方が互いに愛し合うこと、これがわたしの掟である」
「わたしが命じることを行うなら、あなた方はわたしの友である」
「あなた方が互いに愛し合うこと、これをわたしはあなた方に命じる」

◯ヨハネによる福音書17章21節、23節~24節
「どうか、すべてのものを一つにしてください。父よ、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしをお遣わしになったことを、世が信じるようになるためです」
「わたしが彼らのうちにおり、あなたがわたしのうちにおられるのは、彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしをお遣わしになったこと、そして、あなたがわたしを愛してくださったように、彼らをも愛してくださったことを、世が知るようになるためです。父よ、あなたがわたしにお与えになった人々がわたしのいる所に、ともにいるようにしてください。世界の造られる前から、あなたがわたしを愛して、お与えくださった、わたしの栄光を彼らに見せるためです」

◯使徒言行録18章10節
「わたしはあなたとともにいる。誰もあなたに手を下して危害を加える者はない。この町には、わたしの民となる者が大勢いるからである」

◯コリントの人々への第二の手紙6章16節
「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」

◯フィリピの人々への手紙4章8節〜9節
「それでは、兄弟のみなさん、真実であること、尊ぶべきこと、神の前に正しいこと、清いこと、愛すべきこと、評判の善いこと、また、何らかの徳や賞賛に値することは、すべて心に留めなさい。わたしから学んだこと、受けたこと聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の源である神があなた方とともにいてくださいます」

◯ヨハネの第一の手紙3章21節〜24節
「愛する者たちよ、もし心に責められることがなければ、わたしたちは神の前に確信を持っていられます。そして、わたしたちが神に求める物は何でも受けることができます。それは、わたしたちが神の掟を守り、み旨にかなうことを行っているからです。その掟とは、わたしたちが神の子イエス・キリストの名を信じること、また、わたしたちにお命じになったとおり、互いに愛し合うことです。掟を守る人は、神のうちに留まり、神もまた、その人のうちに留まります。神がわたしたちのうちに留まっておられることをわたしたちは、神がわたしたちに与えてくださった霊によって知るのです」

◯ヨハネの黙示録21章3節〜4節
「また、わたしは玉座から出る大きな声が、こう言うのを聞いた、『見よ、神の幕屋は人々とともにあり、神は人々とともに住まわれ、人々は神の民となる。神ご自身、人々とともにおられ、人々の神となり、神は人々の目から、涙をことごとくぬぐい去ってくださる。もはや死もなく、もはや悲しみも、嘆きも、苦しみもない。先にあったものが、過ぎ去ったからである』」

◯フィリピの人々への手紙2章6節~11節
「キリストは神の身でありながら、神としてのあり方に固執しようとはせず、かえって自分をむなしくして、僕(しもべ)の身となり、人間と同じようになられました。その姿はまさしく人間であり、死に至るまで、十字架の死に至るまで、へりくだって従う者となられました。それ故、神はこの上なくこの方を高め、すべての名に勝る名を惜しみなくお与えになりました。こうして、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものはすべて、イエスの名において膝(ひざ)をかがめ、すべての舌は『イエス・キリストは主である』と表明し、父である神の栄光を輝かせているのです」

◯ルカによる福音書23章39節〜43節
「十字架にかけられた犯罪人の一人が、イエスを侮辱して言った、『お前はメシアではないか。自分とおれたちを救ってみろ』。すると、もう一人の犯罪人が彼をたしなめて言った、『お前は同じ刑罰を受けていながら、まだ神を畏(おそ)れないのか。われわれは、自分のやったことの報いを受けているのだからあたりまえだが、この方は何も悪いことをなさっていない』。そして言った、『イエスよ、あなたがみ国に入られるとき、わたしを思い出してください』。すると、イエスは仰せになった、『あなたによく言っておく。今日(きょう)、あなたはわたしとともに楽園にいる』」