【1】本田哲郎神父のメタノイア論とは
聖書ギリシア語「メタノイア(μετάνοια – matanoia)」の意味に関して、本田哲郎神父はその著書『聖書を発見する』(岩波書店)の中で、独特の見解を披露しています。
・「これはマルコ福音書の中で、最初にイエスが口を開く場面です。何を言ったのだろうかと、興味深い箇所です。『時は満ち、神の国はすぐそこに来ている。低みに立って見直し、福音に信頼してあゆみを起こせ』。わたしたちの耳に慣れているのは、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』という翻訳かもしれません。」(27ページ)
・「ここで、『時は満ち、神の国はすぐそこに来ている』から、『低みに立って見直しなさい』(メタノエイテ)という。悔い改めなさいではありません。これはまったくモラルとは関係のない要請です。名詞の形『メタノイア』のメタは変身(メタモルフォーゼン)や形而上学(メタフィジックス)というように、現代のヨーロッパのことばにも使われますが、「超える」「変える」「移す」ということですが、要するに視座をどこにすえているかということです。メタノイアとは、まさにその視座を移すということ。そこには、宗教もイデオロギーも哲学も関係がない。あなたがふだんものを見て判断するその視座を移して、そこからあらためて見直し、判断しなさい、という意味です。」(29ページ)
・「では、視座をどこへでも移しさえすればいいのか、というとそうではなく、移す先まで指定されているようです。」(29ページ)
・「メタノイアに対応するヘブライ語は、ニッハムということばです。その意味は何かと言えば、to have compassion with、つまり痛み、苦しみを共感・共有するということです(この辺の経緯に興味があるなら、アボット・スミスという人の『新約聖書ギリシア語辞典』が大変有益です。古いものですが、必要に応じてアラマイ語、ヘブライ語と対照してくれています。七十人訳ではどのヘブライ語を、このギリシア語に訳すことが多いか、などというデータも含めて紹介しています)。」(30ページ)
・「つまり、メタノイアとは、人の痛み、苦しみ、さびしさ、悔しさ、怒りに、共感・共有できるところに視座・視点を移すことだと分かります。人の痛みの分かるところに、視座・視点を移し、そこから見直してみると、実際にやってみれば分かるのですが、そのときはじめて、見えなかったところが見えてきます。何を悔い、何を改めなければならなかったのかが見えてくるのです。」(30~31ページ)
・「たとえば、イザヤ書の四〇章でしたか、『慰めよ、慰めよ、わが民を』と、バビロン捕囚のさなかにある民に向けた、神からのメッセージをイザヤが受けます。そのヘブライ語原文は、『ナハムー・ナハムー・アンミー』ですが、そのナハムーということばが、痛みを共感・共有するという、さきほど言ったギリシア語メタノイアの元になることばなのです。『慰める』と言えば、どうしても元気な人が元気の出ない人にことばをかけるといったことだと理解してしまいがちですが、実際には『痛み、苦しみ』を共感・共有することこそ、相手を元気にしてあげることができるのだ、その力があるのだというわけです。つまり、結果として慰めをもたらすことになるのです、と。」(242ページ)
【2】本田哲郎神父のメタノイア論と七十人訳聖書における実例
さて本田神父は以上のように言っていますが、この本田発言の妥当性(本田哲郎神父のメタノイア論の妥当性)を検討するため、次に、七十人訳ギリシア語旧約聖書の中の、
「メタノイア(metanoia – μετάνοια、及びその動詞形、metanoeō – μετανοέω)」
について、対応するヘブライ語のテキストとの比較検討が可能な部分(=いわゆる第二正典やアポクリファを除いた部分、及びギリシア語テキストとヘブライ語のテキストで内容が全く異なる箴言30・1も除く)から全ての用例を列挙し、メタノイアというギリシア語がどのような文脈で用いられているのか、ヘブライ語テキストの日本語訳と対比することによって、(本田哲郎神父のように「辞典」を介してではなく)実際の個々の用例から、その意味するところを浮き彫りにしていきます。
なお対応する日本語訳は、『聖書』フランシスコ会聖書研究所訳注によります。同『聖書』の旧約聖書部分の底本は「ビブリア・ヘブライカ・シュトットガルテンシア」(ドイツ聖書協会)であり日本語訳は基本的に底本のヘブライ語テキストからの翻訳とされます。従って、ヘブライ語テキストからの日本語訳とギリシア語七十人訳とで文脈が明らかに異なる例(アモス7・3及び同7・6)では、その旨を(注)にて説明します。
また、以下のギリシア語は、全てラテン文字転写して表記します。
A.対応するヘブライ語:nacham “נחם”
(=本田哲郎神父の言及する「ニッハム」あるいは「ナハムー」)
(1)サムエル上15・28~29
サムエルは言った、「主は、今日、イスラエルの王位をあなたから取り上げ、あなたより優れた隣人にそれを与えられました。イスラエルの栄光である方は偽ることもなく、悔い改める(metanoēsei)ことのない方です。人間ではないので悔いる(metanoēsai)ことはありません」。
(2)エレミヤ4・27~28
まことに、主はこう仰せになる、「すべての地はことごとく荒廃する。しかし、わたしは絶滅させはしない。この事態に、地は喪に服し、上の天は暗くなる。このように、わたしが語り、わたしが定めた。これを悔いる(metanoēsō)ことは決してなく、変えることも決してない」。
(3)エレミヤ8・6~7
わたしは耳をすまして聞いたが、彼らは正しいことを語らず、誰一人、その悪を悔いて(metanoōn)『わたしはなんということをしたのか』と言う者はいない。誰もがみな、戦場に突入する馬のように自分の道を駆ける。空を行くこうのとりはその季節を知り、山鳩、つばめ、つぐみは渡りの時を守る。しかし、わたしの民は主の定めを知らない。
(4)エレミヤ18・7~8
わたしがある国やある王国に対して、これを抜き、壊し、滅ぼすと語り、わたしが警告した悪からその国やその王国が立ち返れば、わたしはただちに、それに対して下そうと計画した災いについて思い直す(metanoēsō)。
(5)エレミヤ18・9~10
または、わたしがある国やある王国に対して、これを立て、植えると語り、これがわたしの声に聞き従うことなく、わたしが悪と思うことを行えば、わたしはただちに、それにもたらそうと考えていた幸いについて思い直す(metanoēsō)。
(6)エレミヤ31・18~19(七十人訳の38・18~19)
「わたしはエフライムが悲しみにうち震えるのを確かに聞いた。『あなたがわたしを懲らしめ、わたしは馴らされていない若い雄牛のように懲らしめを受けました。わたしが立ち返るようにし、わたしを立ち返らせてください。あなたは主、わたしの神だからです。さ迷った後、わたしは悔い改めました(metenoēsa)。悟った後、自分の腿を打ちたたきました。私は若いころの恥辱を負い、恥を受け、打ちひしがれました』。」
(7)ヨエル2・13~14
お前たちの衣服ではなく、心を引き裂き、お前たちの神、主に立ち返れ。主は恵み深く、憐れみ深い。怒るに遅く、慈しみ溢れ、災いを思い留まられる(metanoōn)。あるいは主が思い直され(metanoēsei)、その後に祝福を残し、お前たちの神、主にささげる穀物とぶどう酒を残してくださるかもしれない。
(8)ヨナ3・7~10
また王はニネベじゅうに次のように布告した。「王とその大臣の命令により、人も家畜も、牛や羊に至るまでみな、何一つ食物を口にしてはならない。食べること、水を飲むことも一切してはならない。人も家畜も粗布を見にまとい、力の限り神に呼び求め、各々がその悪い行いと暴力から離れなければならない。あるいは神が思い直されて(metanoēsei)、怒るのをやめ、われわれは滅びないですむかもしれない。」神は人々がその悪い行いから立ち返ったことをご覧になって思い直され(metenoēsen)、彼らの上に下そうとした災いをやめられた。
(9)ヨナ4・2
わたしはあなたが恵み深く憐れみ深い神であり、怒るに遅く、慈しみに溢れ、災いを思い留まられる(metanoōn)ことを知っていたからです。
(10)ゼカリヤ8・14
万軍の主はこう仰せになる、「お前たちの先祖がわたしを怒らせたとき、お前たちに災いを下そうとし決意し、思い直す(metenoēsa)ことはなかった」
〔注〕七十人訳のアモス7・3と同7・6にも「メタノイア」は用いられていますが、ヘブライ語のテキストでは両方の箇所で「主はこのことを思い直され」となっているところが、七十人訳では前節からの預言者アモスの主に対する呼び掛けの続きの文脈で「メタノイア」が含まれています。つまりどちらも七十人訳では「主よ、どうかこのことを思い直してください(metanoēson)」という表現となっています。参考までに両方の箇所のヘブライ語テキストからの日本語訳(『聖書』フランシスコ会聖書研究所訳注)を提示します。
(α)アモス7・3
主はこのことを思い直され、「それは起こらない」と仰せになった。
(β)アモス7・6
主はこのことを思い直され、「これも起こらない」と主なる神は仰せになった。
B.対応するヘブライ語:bin “בּין”
(11)箴言14・15
思慮のない者はどのような言葉でも信じるが、思慮深い者は自分の歩みを弁える(metanoian)。
C.対応するヘブライ語:baqar “בּקר”
(12)箴言20・25
軽々しく、「これは聖なるものだ」と言い、願を立てた後に、それを思い直す(metanoein)者は、罠にかかる。
D.対応するヘブライ語:shith “שׁית”
(13)箴言24・30~32
わたしは怠け者の畑の傍らを通り、思慮に欠けている者のぶどう畑の傍らも通った。見ると、そこは茨が一面に茂り、いらくさが地面を覆い、石垣が崩れていた。それで、わたしはこれを見て、心に留め、よく考え(metenoēsa)、教訓を得た。
E.対応するヘブライ語:ish “אישׁ”
(14)イザヤ46・8~9
このことを覚え、しっかりと自覚せよ(metanoēsate)。逆らう者どもよ、思い起こせ。以前から、先に起こったことを覚えよ。まことに、わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神は、まったくいない。
【3】本田哲郎神父のメタノイア論を検証する
以上から明らかになったことは、七十人訳聖書で「メタノイア」という表現が用いられる場合に、最も多い用例は、
「人間たちの行ないに怒りを覚えた主なる神が、預言者を通して災いを予告し、それに対応して人間たちがこれまでの行ないを悔い改めた時、主なる神は人間たちのために心を動かされて、予告していた災いについて思い直す(考え直す、思い留まる)」
という事柄に関係しているとわかります。
これは、ヘブライ語のnacham(=本田哲郎神父の言う「ニッハム」あるいは「ナハムー」)からの翻訳の場合に多く見られ、エレミヤ18・7~8、ヨエル2・13~14、ヨナ3・7~10、同4・2が該当しています。これらの場合、「心を動かされて思い直す」つまり「メタノイア」するのは人間ではなく、実際には主なる神の方だったわけです。
このヴァリエーションとして、逆に人間たちが悪へと走る場合、主なる神は人間たちへの「幸い」についても「思い直す」場合もあります(エレミヤ18・9~10)。また、人間たちの方から主なる神に災いを思い留まるように求める場合にも、「メタノイア」という表現が用いられています(アモス7・3、同7・6)。さらに、主なる神が、予告した「災い」を思い留まることがない、と宣言する場合も「メタノイア」は用いられています(エレミヤ4・27~28、ゼカリヤ8・14)。預言者サムエルがサウルに王位の剥奪を宣告する場合のニュアンスも、これに近いです(サムエル上15・29)。
同じヘブライ語のnachamから翻訳されている場合でも、人間たちが「悔い改める」例も当然見られます(エレミヤ8・6~7、同31・18~19(七十人訳の38・18~19))。実際の用例を検討していくと、ヘブライ語nachamからの翻訳の場合は総じて「思い直す」「考え直す」「思い留まる」「後からよく考える」などのニュアンスで、「メタノイア」という表現が用いられているとがわかりますが、これらは本田哲郎神父が主張するような「視座・視点を移す」こととは、明らかに意味合いが異なっています。
nacham以外のヘブライ語から翻訳されている例も若干見られますが、それらの場合「メタノイア」は、「弁える」や「よく考える」や「(しっかりと)自覚する」など、「熟考する」「熟慮する」といったニュアンスでも用いられています(箴言14・15、同24・30~32、イザヤ46・8~9)。また「思い直す(後から考えを変える、気が変わる)」というニュアンスの場合もあります(箴言20・25)。これらの場合もまた、本田神父の言う「視座・視点を移す」とは明らかに意味合いが異なっています。
なお、念のために付け加えておきますが、本田哲郎神父が前述の『聖書を発見する』242ページで「慰めよ、慰めよ、わが民を」「ナハムー・ナハムー・アンミー」として引用しているイザヤ書40章1節においては、ヘブライ語「ナハムー」(נחם – nacham)に対応している七十人訳聖書のギリシア語の動詞は「パラカレオー(παρακαλέω – parakaleō )」であって、これは「メタノイア(μετάνοια – metanoia)」の動詞形「メタノエオー(μετανοέω – metanoeō)」とは異なるものです。
◯イザヤ40・1(『聖書』フランシスコ聖書研究所訳注)
「慰めよ(parakaleite)、慰めよ(parakaleite)、わたしの民を」と、あなたたちの神は仰せになる。
この「パラカレオー」という動詞は、マタイ福音書5章4節の有名な次の一節にも登場しますが、しかしながらこれはもう、基本的に「メタノイア」とは別概念と考えるべきでしょう。
◯マタイ5・4(『聖書』フランシスコ聖書研究所訳注)
悲しむ人は幸いである。その人たちは慰められる(paraklēthēsontai)。
◯マタイ5・4(『小さくされた人々のための福音』本田哲郎訳)
死別の哀しみにある人は、神からの力がある。その人は慰めを得る(paraklēthēsontai)。
いうまでもなく、日本聖書協会の新共同訳聖書でも、この箇所の日本語は「慰められる」です。
本田神父が「ニッハム」また「ナハムー」として紹介するヘブライ語は、旧約聖書の他の箇所にも登場しますが、次に列挙するような文脈の場合、七十人訳のギリシア語は「パラカレオー」です。
◯創世記24・67
イサクはリベカを天幕を導き入れ、リベカを迎えて妻とした。イサクはリベカを愛して、母の死後も慰めを得た(pareklēthē)。
◯創世記37・35
息子と娘がみなやって来て、彼を慰めようとした(parakalesai)が、彼は慰められること(parakalesthai)を拒んで言った、「いやわたしは嘆きながら陰府(よみ)の息子の所に下っていこう」。こうして父はヨセフのために泣いた。
◯申命記32・36
主はご自分の民を治め、その僕(しもべ)たちを憐(あわ)れまれる(paraklēthēsetai)。彼らの力が消え去り、奴隷も自由な者がいなくなるのを主がご覧になられるからだ。
◯ルツ2・13
ルツは言った、「ご主人さま、どうかこれからもご厚意を示してくださいますように。あなたのはしための一人にも及ばぬこのわたくしですのに、あなたははしための心に触れるお言葉をくださり、慰めてくださいました(parekalesas)」。
【4】七十人訳聖書と新共同訳聖書を比較する
最後に念のために、七十人訳で「メタノイア」が用いられている箇所で、それに対応している新共同訳聖書の日本語がどうなっているのかについても以下に列挙します。新共同訳の旧約部分の底本は「ビブリア・ヘブライカ・シュトットガルテンシア」(ドイツ聖書協会)であり、日本語訳は基本的に底本のヘブライ語テキストからの翻訳とされています。
(1)サムエル上15・29
「気が変わったりする(metanoēsei)」
「気が変わる(metanoēsai)」
(2)エレミヤ4・28
「後悔(metanoēsō)」
(3)エレミヤ8・6
「悔いる(metanoōn)」
(4)エレミヤ18・8
「思いとどまる(metanoēsō)」
(5)エレミヤ18・10
「思い直す(metanoēsō)」
(6)エレミヤ31・19(七十人訳の38・19)
「後悔し(metenoēsa)」
(7)ヨエル2・13〜14
「悔いられる(metanoōn)」
「思い直され(metanoēsei)」
(8)ヨナ3・9〜10
「思い直されて(metanoēsei)」
「思い直され(metenoēsen)」
(9)ヨナ4・2
「思い直される(metanoōn)」
(10)ゼカリヤ8・14
「悔い(metenoēsa)なかった」
(11)箴言14・15
「見分けようとする(metanoian)」
(12)箴言20・25
「思い直せば(metanoein)」
(13)箴言24・32
「観察した(metenoēsa)」
(14)イザヤ46・8
「反省せよ(metanoēsate)」
【追記】旧約聖書の、いわゆる「第二正典」である知恵の書とシラ書に登場する、
「メタノイア(metanoia – μετάνοια、及びその動詞形、metanoeō – μετανοέω)」
についても、参考までに提示しておきます。
ただし、「第二正典」は基本的にギリシア語で書かれているものを本文としています。
ヘブライ語原文との比較によってではなく、文脈からその意味するところを明らかにしていくしかありません。
以下に、フランシスコ会聖書研究所訳による日本語とともに、ギリシア語を提示します。
(A)知恵5・2〜4
これを見て彼らは大いにおじ恐れ、思いも寄らない義人の救いに驚く。彼らは悔やんで(metanoountes)互いに言い合い、心の悶えに呻きながら言う、「彼は以前われわれが笑い種(ぐさ)にし、あざけりの的にした者だ、われわれは愚かだった。彼の生き方は狂気のさた、彼の最期は不名誉なものと思った。」
(B)知恵11・23
あなたはすべてがおできになるので、すべての者を憐れまれ、人々が悔い改めるように(metanoian)、その罪を見過ごされる。
(C)知恵12・10
むしろ彼らを徐々に罰して、悔い改め(metanoias)の時を彼らにお与えになるためであった。あなたは、彼らの生まれが悪く、その悪が生まれつきのものであることや、彼らの思いがいつまでも変わらないことを、知らなかったのではない。
(D)知恵12・19
あなたは、これらの業を通して、あなたの民に、義人は人に親切でなければならないことを教え、またあなたは、罪を悔い改める(metanoian)恵みが与えられる希望を、あなたの子らに抱かせた。
(E)シラ17・23〜25
最後に、主は立ち上がって彼らに報いを与え、彼らの頭上にその報いを下される。その時、主は悔い改める(metanoousin)者に立ち返る道を開き、忍耐を失っている者に慰めをお与えになる。主に立ち返り、罪を捨てよ。主の前に祈り、罪の機会を少なくせよ。
(F)シラ44・16
エノクは主に喜ばれて移され、後の代(よ)のために悔い改め(metanoias)の模範となった。
(G)シラ48・15
これらのすべてのことがあったにもかかわらず、民は悔い改め(metenoēsen)ず、また、その罪から離れなかった。こうして、彼らはついに、捕虜として祖国から連れ去られ、残ったのはごく僅(わず)かな人々と、ダビデ家の支配者だけであった。
以上から、シラ書17章に至って、「メタノイア」が「主に立ち返ること」という意味合いと一致したことが、明らかとなります。
また、シラ書44章16節はエノクのことを「メタノイア」の「模範」であると表現していますが、創世記5章はエノクに関して、「エノクは神とともに歩んだ。」(22節)また「エノクは神とともに歩み、神がエノクを取られたので、見えなくなった。」(24節)と記述しており、この場合「メタノイア」は「神とともに歩むこと」という意味合いを含むものとして用いられています。
洗礼者ヨハネは、マタイ福音書3章2節において、「メタノイア」を呼び掛けるのに続けて天の国が近づいたことも告げましたが、シラ書の17章や44章の記述と比較しても明らかな通り、洗礼者ヨハネの求める「メタノイア」が「主に立ち返ること」また「神とともに歩むこと」であるのは、当然とも言えるでしょう。
これに関連して、ミカ書6章8節には、「人よ、何が善いことか、主が何を求めておられるかは、お前に告げられたはずだ。正義を行い、慈しみを愛すること、へりくだって神とともに歩むこと、これである」と書かれています。
申命記30章16節には、「今日(きょう)、わたしがあなたに命じるように、あなたの神、主を愛し、その道を歩み、その命令と掟(おきて)を守るなら、あなたは生き、その数は増える。あなたの神、主は、あなたが入っていって所有する土地で、あなたを祝福される」と記されています。
創世記6章9節には、「ノアの物語は次のとおりである。ノアは当時の人々の中で正しく、かつ非の打ち所のない人であった。ノアは神とともに歩んだ」と書かれています。
また創世記17章1節では、主はアブラム(アブラハム)に現れて、「わたしは全能の神である。わたしの前に歩み、完全な者であれ」と仰せになっています。
そしてヘブライ人への手紙11章5節~6節では、エノクについて、「信仰によってエノクは、死というものに出会わないように移されました。神がお移しになったので、人々は彼を見出すことができなくなりました。移される前から、彼は神に喜ばれていたことが証明されていました。信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在すること、および、ご自分を求める者に報いを与える方であることを信じていなければならないのです」と記述されており、これもまたシラ書の「メタノイア」に関連した記述となっています。
続く7節には、「信仰によってノアは、まだ見えない将来のことについて神の警告を受けたとき、畏れかしこんで、自分の家族を救うために箱船を造りました。こうして、彼は信仰によって、この世を罪に定め、信仰に基づく義を、賜物として受けたのです」と書かれています。
(注)別エントリー「ユダは自殺の前に『メタノイア』したのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1667