「バプテスマ(Βαπτισμα – baptisma)」というギリシア語は、通常カトリックで用いられる聖書では、「洗礼」と日本語訳されています。
ところが本田哲郎神父は、この「バプテスマ」の意味に関して、その著書のいくつかにおいて、「バプテスマとは『身を沈める』『身を浸す(ひたす)』ことであり、『洗う』とか『清める』という意味はない」と主張し、まさにこの主張こそが本田神父の洗礼論──バプテスマ論の出発点となっています。
そこで、「洗礼」と日本語訳される聖書ギリシア語バプテスマについての本田哲郎神父の主張──すなわち「身を沈める、身をひたすという意味です」「洗うとか清めるという意味はありません」といった主張の妥当性について、特に「沈む/沈める」というニュアンスとの関連を焦点として、実際の聖書の用例と数多く照合しながら、これより検証していきます。
【1】「バプテスマは、単純に『身を沈める』こと」と主張する本田哲郎神父
本田哲郎神父は著書『釜ヶ崎と福音』(岩波書店)の中で、「洗礼」と題した章(90~92ページ、岩波現代文庫版では98〜100ページ)において、「沈む/沈める」というニュアンスを強調するために、
「『沈めの式』(洗礼式)」
という表現を何度も用いていますが、同書74ページ(岩波現代文庫版では80ページ)においても、この「『沈めの式』(洗礼式)」という独特の表現が登場し、本田神父は独自の洗礼論を76ページ(岩波現代文庫版では83ページ)まで展開しています。
バプテスマの第一義を「沈む(あるいは、〔身を〕沈める)」ことと主張する、この本田哲郎神父の持論は、別の箇所でも見ることができます。
『釜ヶ崎と福音』201ページ(岩波現代文庫版では215ページ)には、次のように書かれています。
・「キリスト者としての根幹、すなわちキリスト者としての生活姿勢は、入信の儀式として行なわれる『沈めの式』(バプティスマ Βαπτισμα=洗礼式)において象徴的に示されています」
この独特の表現に関して、本田神父の別の著書『聖書を発見する』(岩波書店)の45~46ページでは、次のように説明しています(以下、ギリシア語はラテン文字転写して表記します)。
・「従来、『洗礼を受ける』と訳されてきたギリシア語バプティツォマイは、バプテスマの動詞形で、身を沈める、身をひたすという意味です。洗うとか清めるという意味はありません。たとえばギリシア語では、体を洗う(入浴)ならルーオ、手足や顔を洗うならニプト、服や手ぬぐいを洗う(洗濯)ならプリュノ、けがれを清めるならハグニツォという用語があり、聖書の中にもそれぞれの意味で使われています。バプテスマは、単純に『身を沈める』ことなのです」
(ここで本田神父の言う「バプティツォマイ」(baptizomai)は、バプティツォ(baptizō)のことです。)
また、本田哲郎訳『小さくされた人々のための福音』(新世社)15ページには次のように書かれています。
・「ちなみに、ギリシア語では次のように使い分けがされています」
・「『体を洗う(入浴)』には louō、『手、足、顔などを洗う』は niptō、『洗濯する』は plynō、『けがれを清める』は hagnizō、『身を沈める、浸(ひた)す』は Baptizō です」
【2】バプテスマに「洗う」「清める」という意味は本当にないのか
……さて、本田神父はこう言い切っていますが、「バプテスマ」の動詞形のギリシア語(baptizō)には、はたして本当に「身を沈める、身をひたす」という意味しかなく「洗う」「清める」という意味はないのでしょうか。
「バプテスマ」に関する本田神父の以上のような主張は、シラ書34章30節の記述によって否定されます。 (以下、聖書の引用はフランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』から行ないます)
・「屍に触れて身を清めてから、再びこれに触れるなら、体を洗うことに何の益があろうか」
この箇所の「身を清めて(から)」という日本語の部分に該当する原文のギリシア語の表現は“baptizimenos”で、バプテスマの動詞形のバプティツォ(baptizō)が用いられています。
つまりシラ書34章30節においては、「バプテスマ」というギリシア語は「死体との接触による不浄からの清め」という意味で使用されています。
よって、本田神父による「バプテスマは、単純に『身を沈める』ことなのです」「洗うとか清めるという意味はありません」という上記に引用した『聖書を発見する』の記述は、明白な誤りということになります。
ちなみにシラ書34章30節の、「(体を)洗うこと」に用いられているギリシア語はルートロン(loutron)で、本田神父が「体を洗う(入浴)ならルーオ」と紹介した動詞ルーオ(louō)の名詞形です。
新約聖書のテトスへの手紙3章5節では、洗礼を比喩的に「洗い」と表現していますが、ここでも用いられている原文のギリシア語は、同じくルートロンです。
やはり本田神父の持論とは異なり、「バプテスマ」に洗うとか清めるという意味は含まれているのです。
さて次に、七十人訳ギリシア語旧約聖書の列王記下5章で、本田哲郎神父の上記の「バプテスマ」論が正しいか否かを検証してみます。
◯列王記下5章10節
・「エリシャは使いの者をやって言わせた、『ヨルダン川へ行って、七度身を洗いなさい(lousai)。そうすれば、あなたの体は元に戻り、あなたは清くなります』」
◯列王記下5章14節
・「そこでナアマンは下って行き、神の人が命じたようにヨルダン川に七度身を浸した(ebaptisato)。彼の体は元に戻り、幼子の体のようになり、彼は清くなった」
10節でエリシャが指示した行為は、“lousai”すなわち本田神父がいうところの「ルーオ(louō)」という動詞で表現されています。
一方、その指示に対してナアマンが実際に行なった行為は、“ebaptisato”──本田神父がいうところの「バプティツォマイ」──つまりバプティツォ(Baptizō, baptizō)という動詞で表現されているわけですから、「バプテスマ」に当たります。
この場合、両者は同じ行為を意味していますから、ナアマンの行なった「バプテスマ」には当然、「ルーオ」すなわち「(身を)洗う」という意味合いが必ず含まれていなければなりません。
エリシャはナアマンに対し、七度「ルーオ」することによって「あなたは清くなります」、と約束しました。
そしてナアマンは、「神の人(エリシャ)が命じたように」、七度「バプティツォ」したことによって、「彼は清くなった」のです。
「ルーオ」すれば実現すると神の預言者によって約束された治癒が、「バプティツォ」することによって現実のものとなったのですから、「バプティツォ」という言葉の意味合いは必ず「ルーオ」という言葉の意味合いと重なっていなければならないはずです。
ということは、この列王記下5章を踏まえて考えれば、『聖書を発見する』45ページにおける、
・「従来、『洗礼を受ける』と訳されてきたギリシア語バプティツォマイは、バプテスマの動詞形で、身を沈める、身をひたすという意味です。洗うとか清めるという意味はありません」
という本田哲郎神父の主張は、やはり歴然たる誤りということになります。
この箇所では「ルーオ」と「バプティツォ」とは同じ一つの行為を表現していますから、必ずこの両者は同じ意味合いでなければならないのです。
「あなたは清くなります」(10節)あるいはまた「彼は清くなった」(14節)という記述からも明らかなように、列王記下5章の文脈を読む限り「バプテスマ」と「洗い」「清め」とは分かち難い関係にあるとしか解釈できませんし、だとすれば本田哲郎神父が「洗うとか清めるという意味はありません」などと発言するのは全く不可解な話で、発言の根拠も不明です。
このナアマンのエピソードをルカ福音書4章で、主イエス・キリストも言及しておられます。
◯ルカによる福音書4章27節
・「また預言者エリシャの時代に、イスラエルには、重い皮膚病を患っている人が大勢いた。しかし、そのうちの誰も清められず、シリアのナアマンだけが清められた」
ナアマンのエピソードで重要なのは、「身を浸した」行為が「清められた」という結果に直結している点です。だからこそ、バプテスマの動詞形を用いてそのことを七十人訳聖書は表現しているのであって、主イエス・キリストも「清め」の著名な例としてナアマンを引用されているわけです。
重ねて強調しますが、古代のギリシア語旧約聖書である七十人訳聖書では列王記下5章のナアマンのエピソードにおいて、「バプテスマ」の動詞形である「バプティツォ」は明らかに、「(身を)洗う」という意味の動詞「ルーオ」と同じ行為について用いられており、しかも結果的に「清め」に至っていることからも、この著名な故事から考察する限り「バプテスマ」と「洗い」「清め」とは分かち難い関係にあるとしか解釈できません。
【3】「バプテスマは、単純に『身を沈める』こと」ではない
「死体との接触による不浄とその清め」に関するモーセの律法の規定は、旧約聖書の民数記19章に書かれています。
前述のシラ書34章30節の記述は、当然のことながら、民数記19章の律法を前提としています。
そこで、民数記19章の関係する部分を見てみましょう。参考のため、全文を引用します。
・「どのような人の死体であれ、それに触れた者は、七日の間汚れる。その者は、三日目と七日目に汚れを清める水で自らを清めなければならない。そうすれば清くなる。もし三日目と七日目に自らを清めないなら、清くならない。人の死体に触れて、自らを清めない者は誰でも、主の住居を汚す者である。その者はイスラエルから断たれる。汚れを清める水が振りかけられていないので、まだ汚れたままである。彼の汚れはまだ彼の上にある」(11節~13節)
・「人が天幕の中で死んだ時の規定は次のとおりである。その天幕に入った者、あるいは天幕の中にいた者はみな、七日の間汚れる。蓋が閉まっておらず、開いていた器もみな、汚れる。また野外で、剣で殺された者や自然に死んだ者、人骨や墓に触れた者はみな、七日の間汚れる」(14節~16節)
・「汚れた者のために、焼いた贖罪の献げ物の灰を取って器に入れ、これに生きた水を加える。清い身の者がヒソプを取ってそれを水に浸し、天幕、すべての器、そこにいた人々、あるいは骨、殺された者、死んだ者、墓に触れた者に振りかける。三日目に七日目に、清い身の者は身の汚れた者にそれを振りかける。このようにして七日目に身の汚れた者を清める。それから、その者は衣服を洗い、水で身を洗う。それすれば夕方には清くなる」(17節~19節)
・「汚れた者が身を清めなければ、その者は集会の中から断たれる。主の聖所を汚したからである。汚れを清める水がその者に振りかけられていないので、彼は汚れている。これは彼らが永久に守るべき掟である。汚れを清める水を振りかけた者は、自分の衣服を洗わねばならない。また汚れを清める水に触れた者は夕方まで汚れる。汚れた人が触れたものはすべて汚れる。またその者に触れた人も夕方まで汚れる」(20節~22節)
民数記19章の「清め」に関する規定を読むと、先の『聖書を発見する』45~46ページからの引用では本田神父が全く触れていない、「(汚れを清める水を)振りかける」という動詞が何度も登場することに気づきます。
またこの場合の
「清め」には、汚れを清める水を「振りかける」という動作が不可欠であることがわかります。
七十人訳ギリシア語旧約聖書では、この「(汚れを清める水を)振りかける」という動詞に対して「ライノ(rainō)」というギリシア語を当てています。
本田神父は上記の引用部分では、この「ライノ」というギリシア語には言及していません。
この「ライノ」という動詞は、七十人訳聖書のエゼキエル書36章25節にも登場します。
・「わたしはお前たちに清い水を注ぐ。そうすれば、お前たちは清くなる。すべての汚れ、すべての偶像からお前たちを清める」
の「(清い水を)注ぐ」とある箇所に、七十人訳ではライノというギリシア語の動詞が用いられています。
話を元に戻すと、シラ書34章30節の「バプテスマ」という行為は民数記19章の律法の規定に基づいたものですが、民数記19章においては本田神父が主張するような「身を沈める」や「身をひたす」という行為は全く登場せず、その代わり、本田神父が否定する意味合いである「(汚れを)清める」という行為と、本田神父がなぜか言及しない「(汚れを清める水を)振りかける」という行為とについて、詳しく説明されています。
本田神父は「従来、『洗礼を受ける』と訳されてきたギリシア語バプティツォマイは、バプテスマの動詞形で、身を沈める、身をひたすという意味です」と主張しますが、しかし、民数記19章においては、18節に「清い身の者がヒソプを取ってそれを水に浸し、」とある通り、ひたされる(浸される)のは人間ではなく、実はヒソプの方だったのです。
【4】バプテスマの動詞形の意味が「身を沈める、身をひたす」とは、はたして本当か
本田哲郎神父は「身を沈める、身をひたす」と大雑把に一括りにして語っていますが、百歩譲って仮にその本田神父の主張が正しいとして、それならば例えば、全身を水中に沈めた「潜水」の状態も、「全身浴」の状態も、「半身浴」の状態も、「足湯」の状態も、それらの全てを一括りにして同じく一つのギリシア語の単語で表現できるのか、という疑問が当然ながら生じます。
実際にどの程度まで「身」を水中に入れるのかと考えると、「身を沈める」と「身をひたす」とでは、やはり差異は生じます。
そこで、「バプテスマ」の動詞形「バプティツォ(Baptizō, baptizō)」とは別に、ギリシア語に「身を沈める」という意味を持つ動詞が他に存在するのかしないのかを調べてみます。
マタイによる福音書14章には、湖の上を歩いておられる主イエスの姿を見てペトロも同じようにしますが、途中で強い風に恐れを抱いて沈みかける話があります。
この箇所(30節)で、ペトロが「沈みかけた」という部分で用いられているギリシア語の動詞は“katapontizesthai”、すなわち「カタポンティツォ(katapontizō)」であって、バプテスマの動詞形「バプティツォ」ではありません。
この「カタポンティツォ」というギリシア語は七十人訳ギリシア語旧約聖書の詩編69(68)編の3節と15節にも登場しますが、ここでは窮地に立たされていることの比喩として「泥の深みに沈み(“katepontisen”)」「泥沼に沈まぬように(“katapontisatō”)」などの表現の箇所で、この動詞が用いられています。
つまり、マタイ福音書14章や七十人訳の詩編69(68)編では、「沈む」を意味するギリシア語は「バプティツォ」ではなく別の動詞「カタポンティツォ」なのです。
一方でルカによる福音書5章には、主イエスの言葉に従って漁をしたシモン・ペトロとその舟が、あまりに大漁になり過ぎてやはり沈みかける話があります。
この箇所(7節)において、「今にも沈みそう」という部分で用いられているギリシア語の動詞は“bythizesthai”、すなわち「ブティツォ(buthizō)」であって、やはり「バプティツォ」ではありません。
ルカ5章7節で沈むのは「舟」と解釈できますが、しかしマカバイ記二12章4節では人間が水中に沈む場合にも同じ「ブティツォ」という動詞は用いられており、この「ブティツォ」にも「身を沈める」という意味が存在します。
しかも、この動詞「ブティツォ(buthizō)」の関連語「バトス(bathos)」には比喩的に「どん底(の)」という意味合い(コリントの人々への第二の手紙8章2節では「極度の(貧しさ)」)もあり、むしろそれこそ本田神父のように貧困との兼ね合いで「身を沈める」云々するとしたら、「バプティツォ」よりもこちらの方がしっくり来るはずです。
また「ブティツォ」の語源となった「ブトス(buthos)」も、七十人訳の出エジプト記15章5節においては、「淵の底」(フランシスコ会聖書研究所訳。新共同訳では「深い底」)という意味を持つ語として用いられています。
いかにも本田神父が好みそうな「底辺」に「身を沈める」というニュアンスならば、まちがいなくこちらの「ブティツォ」の方なのです。
テモテへの第一の手紙6章9節の「それらのものは、人々を滅びと破滅に沈ませます」という箇所で、「沈ませます」に相当するギリシア語も“bythizousin”、すなわち「ブティツォ(buthizō)」であって、やはり「バプティツォ」ではありません。
既に、【2】と【3】で考察した通り、シラ書34章30節においては「バプティツォ」は「身を沈める、身をひたす」という意味では用いられておらず、「水を振りかけられて(死体との接触による)不浄を清める」を意味しています。
一方では、「身を沈める」というギリシア語には、上記のように「カタポンティツォ」あるいは「ブティツォ」といった他の動詞が存在するのです。
つまり、「身を沈める」「沈む」を意味するギリシア語として福音書には、「バプテスマ」の動詞形「バプティツォ」ではなく、別の動詞「カタポンティツォ」または「ブティツォ」が用いられている事例が存在するのです。
福音書で「身を沈める」あるいは「沈む」場合の複数の事例について、「バプテスマ」の動詞形「バプティツォ」ではない複数の動詞が用いられているという事実は、すなわち「バプテスマ」の本質、第一義が「身を沈める」や「沈む」ことなどではありえないという蓋然性を、強く示唆しています。
ここまで来ると、はたして本田神父が主張しているように「バプテスマ」が「身を沈める」ことであるのかどうかさえ、かなり疑わしくなります。
もし「バプテスマ」が「身を沈める」ことであるとするなら、マタイ14章30節やルカ5章7節でペトロが沈みそうになった場合についても「バプティツォ」と表現されていて然るべきですが、しかしギリシア語原文は決してそういう表現になっていません。
「バプティツォ」という動詞は、七十人訳ギリシア語旧約聖書においては、列王記下5章14節では「身を浸して洗う」を意味しており、その一方、シラ書34章30節では「水を振りかけられて不浄を清める」を意味することが、これまでの考察で明らかになりました。
【5】「バプト」と「バプティツォ」とは、どう違うのか
実際のところ、単純に「ひたす、浸す」という場合のギリシア語の動詞は、もともとは「バプト(baptō)」というものです。
この「バプト」こそ、まさに今ここで問題になっている「バプテスマ」あるいは「バプティツォ」の元になっているギリシア語です。
民数記19章18節で清めのための水にヒソプを「浸す」場合にも、この「バプト」という動詞が用いられています。
この「バプト」は確かに「バプティツォ」の語源となった言葉ですが、両者の意味合いは必ずしも同じであるとは言えません。
七十人訳ギリシア語旧約聖書においては、列王記下5章14節では「身を浸して洗う」を意味する動詞として、「バプティツォ」が用いられています。つまり、単純に「浸す」というだけではなくその行為に「洗う」「清める」というニュアンスが加わった際に、用いられるのは「バプト」ではなく「バプティツォ」という表現になっていた、ということです。
同じ列王記下8章15節には「彼は布を取って水に浸し(ebapsen)」という記述があります。
8章15節と5章14節を比較すると、ヘブライ語原文では両方の箇所とも「タバル(טבל – tabal)」いう同じ語が用いられています。
ところが七十人訳では、8章15節では”ebapsen”すなわち「バプト(baptō)」、5章14節では”ebaptisato”すなわち「バプティツォ(baptizō)」というように、ギリシア語の動詞が使い分けられていたのです。
5章14節の行為には「洗う」「清める」という意味合いが明らかに含まれている一方、8章15節にはその意味合いは含まれていない、という違いによって、「バプト」「バプティツォ」が使い分けられている、と考えられます。
一方、シラ書34章30節では、「水を振りかけられて(死体との接触で生じた)不浄を清める」を意味する動詞として、「バプティツォ」が用いられています。
そして、そのための前処置として、水を振りかけるためのヒソプを清めの水に「浸す」場合、その「浸す」を意味する動詞こそが、まさに「バプト」(民数記19章18節)です。
つまり、「バプト」が結果として「洗う」「清める」という行為に結び付く時、その結果的行為を表現する動詞を「バプティツォ」と表現しているものと考えられます。
重ねて強調しますとシラ書34章30節の「バプテスマ」という行為は民数記19章の律法の規定に基づいたものですが、民数記19章においては本田神父が主張するような「身を沈める」や「身をひたす」という行為は全く登場せず、その代わり、本田神父が否定する意味合いである「(汚れを)清める」という行為と、本田神父がなぜか言及しない「(汚れを清める水を)振りかける」という行為とについて、詳しく説明されています。
すなわち「バプト(baptō)」と「バプティツォ(baptizō)」とは常に互換性があるわけではないということが、列王記下の二か所(5章14節、8章15節)そしてシラ書34章30節の記述によって明らかになります。
とはいうものの、民数記19章18節と列王記下5章14節における「浸す」という動詞は、ギリシア語では確かに前者は「バプト」で後者は「バプティツォ」と異なりますが、ヘブライ語では両者とも「タバル(טבל – tabal)」という同じ語であり、「バプト」と「バプティツォ」とはやはり無関係ではありえないことがわかります。
そこで七十人訳聖書におけるギリシア語「バプト」の具体的な用例をさらに追究し続けることによって、「バプテスマ」の実相に迫りたいと思います。
【6】「体の一部をひたす」と「全身を沈める、潜らせる」とは別物
もちろん、列王記下5章14節の「バプティツォ」に対応するヘブライ語「タバル(טבל – tabal)」の意味は、「(身を)ひたす」です。
これはフランシスコ会聖書研究所訳や新共同訳など、ヘブライ語原文からの日本語訳で確認できる通りです。
しかし、ヘブライ語では、「(身を)ひたす」すなわち「タバル(טבל – tabal)」と、「(身を)沈める」すなわち「タバ(טבע – taba)」の両者とは、一見、似てはいますが、別々の単語になります。両者は似て非なる言葉なのです。
つまり「(身を)ひたす」と「(身を)沈める」とは、ヘブライ語の次元でも別々の表現だったということです。
実は【3】で取り上げた、民数記19章18節の場合、「清い身の者がヒソプを取ってそれを水に浸し、」という箇所の「浸す」という動詞がありますが、七十人訳のギリシア語では「バプト(baptō)」、ヘブライ語原文では「タバル(טבל – tabal)」になります。
つまり、「バプティツォ(baptizō)」の語源の動詞「バプト(baptō)」という言葉で表現される「浸し」は、必ずしも「人間の全身」が対象の場合ばかりではないということになります。
浸されるのが「人間の全身」ではなく、「ヒソプ」であっても、かまわないということです。
七十人訳のレビ記においては、次に示す指を血に浸すといった「浸し」に関しても、「バプト」というギリシア語で表現されています。あくまで「指」であって、「人間の全身」ではありません。
◯レビ記4章6節
・「祭司はその血に指を浸して(bapsei)、主の前、聖所の垂れ幕の前で、その血を七回振りまく」
◯レビ記4章17節
・「祭司は指をその血に浸して(bapsei)、主の前、垂れ幕の前で七回振りまく」
◯レビ記9章9節
・「彼は指をその血に浸して(ebapsen)、祭壇の角に塗り、残りを祭壇の基に注いだ」
上記に紹介したレビ記の三か所で、対応する原文のヘブライ語は「タバル(טבל – tabal)」です。
「指を血に浸してその血を振りまく」あるいは「指を血に浸してその血を何かに塗る」時に、人間は指のどの部分を血に浸すでしょうか? 指の全体を沈めるでしょうか? 普通は指先だけです。
ということは、「人間の全身」どころか、体のほんのごく一部が浸(ひた)されるこのような場合に、この「バプト」という動詞は用いられている、ということになります。
「全身を水中に沈める」「全身を水中に潜らせる」などのイメージとは、むしろ明らかに異なるのです。
またヨシュア記3章15節にも、この「バプト」というギリシア語の動詞は登場し、フランシスコ会聖書研究所訳では「浸(ひた)る」と表現されていますが、この場合も「浸(ひた)る」ことになるのは「人間の全身」ではありません。
◯ヨシュア記3章15節〜16節
・「櫃を担ぐ者たちがヨルダン川に到着し、櫃を担ぐ祭司たちの足が水際に浸(ひた)ると(ebaphēsan)、川上から流れてくる水は、遥か彼方のツァレタンに近い町アダムの辺りで止まり、一つの壁のように立った」
この箇所での「浸(ひた)る」は、「足が水際に浸(ひた)る」ですから、「人間の全身」どころか、体のほんのごく一部が水に浸かっただけの話です。しかしそのような場合でも、「バプト」というギリシア語が用いられるのです。
ちなみに、このヨシュア記3章15節においても、対応する原文のヘブライ語は「タバル(טבל – tabal)」です。
「足が水際に浸(ひた)る」場合に用いられる動詞が「バプト」だとするなら、「全身を沈める」あるいは「全身を水中に潜らせる」などのイメージとは、むしろ明らかに異なるということになります。
つまり「バプティツォ」そして「バプテスマ」の語源となった「バプト」という動詞は、実は体のほんのごく一部が浸かった場合に用いられていることが、七十人訳におけるレビ記やヨシュア記の用例から、明らかにされました。
「バプト」という動詞が用いられる場合、それが「全身を沈める」「潜らせる」という動作である必要は、全くないのです。
同様の「バプト」の例を、もう一つ示します。
◯申命記33章24節
・「アシェルについてモーセは言った、『アシェルは子らのうちで最も祝福される。兄弟に愛され、その足を油に浸す(bapsei)』」
「足を浸す」行為と「全身を沈める、潜らせる」行為とでは、イメージとしてはむしろ大きな違いがあります。
結局のところ、前述のレビ記の三か所(4章6節、4章17節、9章9節)の「バプト」についても、ヨシュア記3章15節と申命記33章24節の「バプト」についても、また列王記下5章14節の「バプティツォ」についても、対応する原文のヘブライ語はそのいずれもが「タバル(טבל – tabal)」だったのです。
ということは、「バプテスマ」を「身を沈める」こととする本田神父の主張は、むしろ「バプト」の具体的な用例には合致しないことになります。
少なくとも、「バプテスマ」の語源となった動詞「バプト」の意味を追究していけばいくほど、「全身を沈める、潜らせる」というイメージからは遠く離れていくように思われます。
そして既に【4】で考察した通り、「全身を沈める」という意味合いにおける「沈める」ならば、「カタポンティツォ(katapontizō)」または「ブティツォ(buthizō)」というギリシア語の動詞が、新約聖書には登場するのです。
ちなみに、「(身を)沈める」すなわち「タバ(טבע – taba)」というヘブライ語は、【4】で考察した詩編69(68)編の二か所で用いられており、ここで対応するギリシア語が「カタポンティツォ(katapontizō)」なのです。
いずれにしろ、ヘブライ語の次元でもギリシア語の次元でも、「ひたす」と「沈める、潜らせる」とは別々の単語で表現されている、と見なすことができる可能性が大きいのです。
重ねて強調しますが、古代のギリシア語訳旧約聖書である七十人訳聖書を用いて、「バプテスマ」の語源となったギリシア語の動詞「バプト」の具体的な用例を検討してみると、レビ記の三か所(4章6節、4章17節、9章9節)そしてヨシュア記3章15節の記述からは、「全身を水中に沈める」「全身を水中に潜らせる」といったイメージとはむしろかけ離れているのが実態であると理解できます。
【7】本田哲郎神父の訳語「ひたし洗い」が露呈する、論理の破綻
次に新約聖書に目を移すと、ルカによる福音書16章24節においても、「バプト(baptō)」は「指先を水に浸す」という文脈で用いられ、「全身を水中に沈める」「全身を水中に潜らせる」という意味合いとは明らかに異なります。
◯ルカによる福音書16章24節
・「ラザロを遣わして、その指先を水に浸し(bapsē)、わたしの舌を冷やさせてください」
結局、上述のレビ記の三か所などと同様に新約聖書のこの箇所でも、「バプト(baptō)」という動詞は体のほんのごく一部が(水に)浸かった場合に用いられているのです。
つまりバプテスマの語源となったギリシア語の動詞「バプト」については、古代に遡ることが可能なギリシア語の聖書で実際にその用例を調べてみると、必ずしも「全身を水中に沈める」「全身を水中に潜らせる」といった文脈で使われているわけではない、ということが判明するのです。
「指先を水に浸し(bapsē)」という表現があるということは、実際に浸される体の表面積にしても、その時に用いられる水の量にしても、ともにほんのごくわずかであれ、「バプト(baptō)」というギリシア語が適用されうる、ということが明らかになります。
この「バプト」は、次の有名な箇所でも用いられています。
◯ヨハネによる福音書13章26節
・「イエスはお答えになった、『わたしがパンを一切れ浸して(bapsō)与える者が、それである』。それから、パンを一切れ浸して(bapsas)手に取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった」
マタイ福音書14章30節でペトロが沈みかけた記述における「沈む」のギリシア語は「カタポンティツォ(katapontizō)」であり、ルカ福音書5章7節でやはりシモン・ペトロとその舟が今にも沈みそうになった記述における「沈む」のギリシア語は「ブティツォ(buthizō)」です。
これらのうち、「カタポンティツォ(katapontizō)」はマタイ福音書の18章にも登場します。
◯マタイによる福音書18章6節
・「しかし、わたしを信じるこの小さな者の一人をつまずかせる者は、首にろばの碾(ひ)き臼(うす)を掛けられ、海の深みに沈められる(katapontisthē)ほうがましである。」
七十人訳の出エジプト記15章にも、この「カタポンティツォ(katapontizō)」は登場します。
◯出エジプト記15章4節
・「主はファラオの戦車と軍勢を海に投げ入れ、選り抜きの士官らは紅海に沈んだ(katepontisen)」
比較する意味で、七十人訳聖書におけるギリシア語「バプト」の用例について、レビ記14章から紹介します。
◯レビ記14章15節〜16節
・「祭司は一ログの油を取り、自分の左の手のひらに注ぐ。そして右の指を左の手のひらにある油に浸し(bapsei)、その指でその油を主の前に七回振りかける」
この場合には、右の指を左の手のひらにある油に「浸す」ことはできても、「沈める」と表現するには違和感があります。
やはり、「浸す」と「沈める」では意味合いが異なります。
そして七十人訳のダニエル書5章21節にも、「バプト」が次のような箇所で登場します。
◯ダニエル書5章20節〜21節
・「お父上は人々の中から追放され、その心は野の獣のようになりました。そしてついに、いと高き神こそが人間の王国を支配し、その思いのままに支配者を立てると悟るまで、お父上は野生のろばとともに生き、牛のように草をはみ、その体は天の露にぬれる(ebapsē)がままでした」
「天の露」に「その体」を「沈める」ことは、不可能でしょう。
ここで「体」が「露にぬれる」状況について、「バプテスマ」の語源である「バプト」という動詞で表現されている事実に、注目すべきです。
コリントの人々への第一の手紙の10章の冒頭では次のように書かれており、バプテスマの動詞形「バプティツォ(Baptizō, baptizō)」が用いられています。
◯コリントの人々への第一の手紙10章1節〜2節
・「兄弟たち、次のことはせひ知っておいてもらいたいと思います。わたしたちの先祖はみな雲の覆いに守られ、みな海を通り抜け、雲の中、海の中で、みな洗礼を授けられて(ebaptisanto)モーセと一致しました」
しかし出エジプト記にある通り、「沈んだ」のはファラオの軍勢であって、モーセの一行ではありませんでした。しかも、先に引用した出エジプト記15章では、ファラオの軍勢が「沈んだ」記述で用いられているのは、4節では「カタポンティツォ(katapontizō)」という異なる別のギリシア語でした。
◯出エジプト記15章4節(再掲)
・「主はファラオの戦車と軍勢を海に投げ入れ、選り抜きの士官らは紅海に沈んだ(katepontisen)」
同じ章でも10節では、「沈む」を表現するために、「ドゥノ(δυνω – dunō)」というまた別のギリシア語が用いられています。
◯出エジプト記15章10節
・「あなたが息吹を吹きかけると、海は彼らを覆い、彼らは大いなる水の中に鉛のように沈んだ(edusan)」
出エジプト記15章において、海に沈んだのはファラオの軍勢であって、モーセの一行は実際には沈むことがありませんでした。にもかかわらず、聖パウロはモーセの一行がバプテスマを受けたと手紙の中で言っています。
よって、「バプテスマ(Βαπτισμα – baptisma)」の本質は「沈む(身を沈める)」ことなどではありえないと、判断せざるを得ません。
やはり「バプテスマは、単純に『身を沈める』ことなのです」という本田哲郎神父の主張は、古代のギリシア語聖書における実際の記述とは整合していないのです。
出エジプト記14章には、モーセの一行は「身を沈める」「身を浸す(ひたす)」どころか、海の中の乾いた土の上を歩いた(22節、29節)ことが記述されている事実があります。
◯出エジプト記14章22節、29節
・「水が割れたとき、イスラエルの子らは海の中の乾いた土の上を進んだ。水は彼らのために右も左も壁のようになった」
・「しかし、イスラエルの子らは海の中の乾いた土の上を歩き、水は彼らのために右も左も壁のようになった」
モーセの一行が水の中に沈むことがなかったにもかかわらず、パウロはモーセの一行がバプテスマを受けたとコリントの人々への第一の手紙10章で主張しているのですから、バプテスマの本質・第一義を「沈む/沈める」ことと見なすのは聖書の実際の記述に基づかない考え方である、という結論に至るのは必然です。
重ねて強調しますが、出エジプト記14章において、モーセの一行は水の中に沈むどころか乾いた土の上を通って行きました。「乾いた土の上を」という記述からは、モーセの一行が水の中に身を浸す(ひたす)ことすらなかったことが、分かります。
ちなみに、エレミヤ書51章にも、「沈む/沈める」を「バプテスマ」とは全く異なる言葉で表現している箇所があります。
◯エレミヤ書51章63節〜64節(七十人訳の28章63節〜64節)
・「この巻物を読み終わったとき、それを石に結びつけ、ユーフラテス川の中に投げ入れ、こう言いなさい、『このようにバビロンは沈み(καταδυσεται – katadusetai)、二度と浮かび上がれない。わたしが下す災いのためである』」
ここで用いられているギリシア語の動詞は、出エジプト記15章10節の「ドゥノ(δυνω – dunō)」という動詞の関連表現である、「カタドゥオ(καταδυω – kataduō)」です。
◯ヨナ書2章6節〜7節
・「大水はわたしの喉にまで達し、深淵がわたしを取り囲みました。山の麓で、海藻がわたしの頭にまつわりつきました。地の閂(かんぬき)がいつもわたしの上で閉まっている地へとわたしは沈んでいきました(katebēn)。しかし、主よ、わたしの神よ、あなたはわたしをその穴から引き上げ、わたしに再び命を与えてくださいました」
ヨナ書2章のこの箇所で「沈む」に対応している七十人訳のギリシア語の動詞は、「カタバイノ(καταβαινω – katabainō)」です。バプテスマの動詞形「バプティツォ」ではありません。
◯エゼキエル書27章27節
・「お前が沈む(ptōseōs)その日、お前の富や製品やその商品、船乗りや水夫たち、浸水の修理工、商品の交易者、船上のすべての兵士、乗り組むすべての者は、海のただ中に沈みゆく(pesountai)」
この節の「沈みゆく」に対応する七十人訳のギリシア語の動詞は、「ピプト(πιπτω – piptō)」であり、「お前が沈むその日」の「沈む」に対応する七十人訳の表現は「プトーシス(πτωσις – ptōsis)」ですが、この「プトーシス」は「ピプト」の名詞形です。
以上の考察から、「バプテスマ(Βαπτισμα – baptisma)」という表現の元になった「バプト(βαπτω – baptō)」というギリシア語の動詞を具体的な個々の用例に関して検討を加えた結果、「全身を沈める」あるいは「全身を潜らせる」といったイメージからは、むしろ大きくかけ離れているということが、確認されました。
ところで、マルコによる福音書7章4節においては、「杯」「鉢」「銅器」「寝台」などに対して行なわれる行為として、”baptismous”という「バプテスマ」の関連表現が用いられています。
本田哲郎訳『小さくされた人々のための福音』は、”baptismous”を「ひたし洗い」と訳していますが、とはいえ、この本田訳自体が、「バプテスマは、単純に『身を沈める』ことなのです」「洗うとか清めるという意味はありません」という、『聖書を発見する』45~46ページの本田神父自身の発言とは、食い違っています。
「洗うとか清めるという意味はありません」と本当に考えているならば、「ひたし洗い」などとは翻訳できないはずです。
ここで本田哲郎神父の論理は破綻しています。
そもそも木工家具である「寝台」を「ひたし洗い」するという発想自体、極めてナンセンスです。なぜなら、水害時の床上浸水の場合を少しでも考えてみればわかりますが、木工製品は、浸水によって容易に腐朽(腐食・劣化)して、使いものにならなくなってしまうからです。
古代に比べて木材の防水加工技術が発達した現代においてさえ、結局はそうなってしまうのです。
「ひたし洗い」という本田神父の訳語がいかに不自然か、このことだけでもわかります。
結果的に木工家具を容易に腐朽させることにつながってしまう「ひたし(浸し)」を、当時は習慣的に行なっていたなどという荒唐無稽な主張には、ありえないと言うほかないです。
(以上、ギリシア語やヘブライ語は適宜ラテン文字転写して表記しました)