試論:「神が人となるためには」を140文字以内で

現代人は「神が人となる」と聞くと、神がそのまま人に変化(変質)するとイメージしがちだが、そのイメージは古代のイスラエル人にはなかった。出エジプト記3章14節「わたしはある」とは《わたしは劣化しない》(詩編102編28(27)節参照)を意味し、神から人への劣化を認めないからである。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

【追記】

神は本来、神以外の存在に変質(劣化)できない以上、「神が人となる」ためには神のままで人間としての全てを担う(引き受ける)必要があった。これをヨハネ1章14節は「〔神の〕御言葉は肉となる」として記し、ニケア・コンスタンチノープル信条は「おとめマリアよりからだを受け」として表現した。

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

古代のイスラエル人にとって、「肉」という表現は「人間」を指す場合があった(ヨハネ1章14節等)。マルコ7章20節以下で主イエスが「人から出て来るものこそ人を汚す」と注意を促した諸悪と、ガラテヤ5章19節以下でパウロが「肉の業」と呼んで避けるように促した諸悪が同様なのは当然である。

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346