主イエスはマタイ8章10節で百人隊長の言葉を聞かれた後「イスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない」と仰せになった。とはいえ、夢の中のお告げに従い、みどりごの御自分と御自分の母を連れてエジプトへの逃避をためらいなく実行した男性の存在を、主がお忘れになっていたはずはない。
(注)別エントリー「試論:『百人隊長と天国の福楽』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
マタイ8章で異邦人の百人隊長は、「行け」「来い」「これをしろ」と仰せられた事柄がその通り実現されていくことが信仰の本質であるという趣旨の答えをして、主イエスを感心させた。マタイ1章から2章でヨセフは、幼子イエスとマリアに対して、まさに全てを仰せの通りに実現させたのではなかったか?
(注)別エントリー「試論:『三人家族の三番目』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14869
マタイ1章19節のギリシア語本文は聖ヨセフを「ディカイオス」(新共同訳では「正しい人」)と表現するが、古代ギリシア語詩編111(112)編6節は「ディカイオス(新共同訳では「主に従う人」)はとこしえに揺らぐことがなく、彼はとこしえに記憶される」として、最大級の賛辞で表現している。
(注)別エントリー「聖ヨセフ:ディカイオスを旧約聖書で考察」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:最後の審判とディカイオスを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6704