マルコ13章26節は「人の子は天の雲に乗って」と訳されるが、日本語の「乗る」に当たる動詞はギリシア語本文にはない。全能の神なる主は移動の際に乗り物は不要で「雲」は神の現存を象徴するに過ぎないが、『西遊記』が有名な日本では孫悟空の雲と変わらぬかの如き誤解を招いている可能性が大きい。
(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『主の日』エルサレム滅亡を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「イエス・キリストと天の雲」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:聖書の『見る』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
黙示録6章15節以下「地上の王や高官や千人隊長たちは洞穴や山の岩間に隠れ、山と岩に向かい『我々の上に覆い被さり玉座に座っておられる方の御顔と小羊の怒りから我々を匿え』と言った」マルコ13章26節「人の子が大いなる力と栄光を帯び天の雲に乗って来るのを見て、地上の全ての民は悲しむ」。
(注)別エントリー「試論:『人の子は来る』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「主の御降誕と古代イスラエルにおける洞穴」も参照のこと。
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(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
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旧約であれ新約であれ聖書で「見る」という表現が用いられる場合、単に「目で見る」ばかりではなく、「心で悟る」「理解する」等も含む。マルコ13章26節「地上の全ての民は人の子が天の雲に乗って来るのを見るであろう」は、黙示録6章17節「神と小羊の怒りの大いなる日が来た」に対応している。
出エジプト記24章にモーセの一行が「神を見た」とあるが神の御姿を実際に見たのでなく、足台(「サファイアの敷石のようなもの」)を見たことによって上におられる神を認識したのである。古代のヘブライ人の理解では、「神を見る」とは、神の御姿をじかに目の当たりにすることを意味していなかった。
(注)別エントリー「試論:『心の清い人は神を見る』を140文字以内で」も参照のこと。
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