エリサベトはルカ1章43節においてマリアのことを「わたしの主のお母さま」と呼んだが、この場合の「わたしの主」とは当然「神」と同義語である。これこそカトリックが「神の母」とマリアを呼ぶ根拠であり、この言葉はエリサベトが「聖霊に満たされて言った」(ルカ1章41節〜42節)ものである。
(注)別エントリー「マリアを『神の母』と呼ぶ聖書的根拠」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4492
【追記】
《御父である神、主》と《御子である神、主イエス》とは、詩編110編1節では御父は「主」、御子は「わが主」でありマタイ22章44節も御父は「主」、御子はダビデの言う「わたしの主」である。ルカ1章43節でエリサベトは詩編110編1節を踏まえ、マリアを「わたしの主のお母さま」と呼んだ。
(注)別エントリー「試論:『神の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6079