試論:『マルコ』対象となる読者を140文字以内で

マルコ福音書とマタイ福音書は共に徴税人が主イエスの弟子となった場面を記すが、『マルコ』は『マタイ』と異なり。ホセア6章6節の引用「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」を省く。『マルコ』は異邦人向けの福音書であって、異邦人たちにはホセア書の予備知識がないからである。

【追記】

『マタイ』と『ルカ』とは古代のヘブライ人の読者を想定しているため、主イエスがアブラハムやダビデの血筋であると、系図で示している。古代のヘブライ人は、ある人物がその職責に相応しい家系の出身者であるかどうかを記録で証明できるかに関して、エズラ2章62節にある通り、非常に敏感であった。

『マタイ』と『ルカ』は洗礼者が「救い主は聖霊と火で洗礼を授けられる」と説いたことを記す。『マルコ』は「聖霊で洗礼を」と「火」を省く。安息日ごとに会堂で預言書が朗読される旧約の民は、「火」とは「主の御言葉」の比喩(エレミヤ5章14節)だと知っているが、異邦人には全く理解不能だった。

主がマタイ9章13節で「わたしが求めるのは憐れみであり『いけにえ』ではない」とホセア6章6節に言及されてファリサイ派の人々に学ばせたかった「意味」という事柄の答えは、ホセア6章3節「主は曙の光のように必ず現われて、春に降り注ぎ大地を潤す雨のようにわたしたちを訪れて下さる」である。

【問】神は人間の不幸を望んでおられますか?
【答】いいえ、断じて望んでおられません。間違った終末思想に陥り始めると「望んでおられる」などと錯覚するのでしょうが、神なる主はエゼキエル18章で「あなたたちは〔わたしに〕立ち帰って、生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」と仰せになっています。

キリスト教の歴史上「救われる者と救われない者とは神に予め定められている」という主張が存在したが、ならば神はなぜエゼキエル18章32節で「お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」と仰せになったのだろうか。二コリント5章14節「キリストは全ての人のために亡くなられた」。

(注)別エントリー「試論:救われる者は少ないか??を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ9章31節には「神は罪人の言うことなどお聞きにならないとわたしたちは承知している」という言葉が記されてはいる。罪人が良からぬ企みを実行する前に成功を神に願い求めても、神が聞き入れるわけがないが、罪人が罪人であることを止めて回心したいと神に願う時は、神は喜んで聞き入れられる。

(注)別エントリー「試論:『聞き入れられる願い事』を140文字以内で」も参照のこと。
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今、あなたの神、主があなたに求めておられることとは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてその全ての導きに従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸せになることではないか。(申命記10章12節〜13節)

ミカ6章8節「何が善であって、主が何をあなたたちに求めておられるかは、あなたたちには既に告げられている。それは神の義を行い、憐れみの業を愛し、へりくだり神と共に歩むこと」ホセア6章6節「わたしが求めるものは『いけにえ』ではなく憐れみであり、焼き尽くす献げ物ではなく神を知ること」。

(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ11章28節「重荷を負う者は、わたしの許へ来なさい」詩編38編5(4)節「わたしの罪悪は耐え難い重荷」マタイ9章13節「正しい人を招くためではなく罪人を招くために、わたしは来た」ホセア6章1節〜2節「わたしたちは主の許に帰ろう。主はわたしたちをいやされ、傷を包んで下さる」。

(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
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