「わたしが清い水を振りかける時、あなたたちは清められる。わたしはあなたたちを、すべての汚(けが)れと偶像から清める」、古代のイスラエル人にとって「水を振りかけられて清められる」とは、民数記19節で命じられる「清めの式」の流儀で、この預言をカトリックでは洗礼に関する啓示と理解する。
(注)別エントリー「試論:出エジプト記14章と洗礼を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15912
(注)別エントリー「試論:『バプテスマ』と『洗い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15165
(注)別エントリー「バプテスマは身を沈める・身をひたすことか【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20233
【追記】
「内側を清くする」と聞いて、人々はエレミヤ4章14節「あなたの心から悪を洗い去りなさい。そうすれば、あなたは救われる。あなたはいつまで、心の中に邪悪な思いを抱え続けているのか」や、エゼキエル36章26節「あなたに新しい心を与え、あなたの中に新しい霊を置く」等を連想したはずである。
主イエスはヨハネ3章5節で「誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と仰せになった。これはエゼキエル36章25節以下「わたしがあなたたちの上に清い水を振りかける時、あなたたちは清められ、わたしはあなたたちの中に新しい霊を置く」と同様、洗礼を示唆している。
(注)別エントリー「試論:『わたしが与える水』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10708