試論:「わたしが与える水」を140文字以内で

主はヨハネ4章14節で「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」と仰せになった。箴言18章4節「人間は心の奥底にある思いをつい口に出して喋ってしまうが、知恵の源から湧き出る御言葉は命の水が溢れる大河のようだ」。

(注)別エントリー「試論:箴言18章4節を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

モーセの律法(レビ記14章など)では清めの儀式に用いる流水を「生きた水」と表現していた(新共同訳は「新鮮な水」)。勢いの良い流水は、澱んで濁った水と違い、清めの儀式に相応しい新鮮な清い水であるが、ヨハネ7章38節で主は、人間を清いものとする聖霊の賜物を「生きた水」にたとえられた。

聖霊の七つの賜物という特別の恵みは、古代のギリシア語訳またラテン語訳のイザヤ書11章2節〜3節の記述に基づいており、【1】知恵(上智)【2】分別(識別)【3】思慮(賢慮)【4】剛毅(勇気)【5】〔主に関する〕知識【6】〔主に対する〕孝愛(信心)【7】〔主に対する〕畏敬などである。

イザヤ11章9節は、「水」で満たすように「大地は主を知る知識で満たされる」と記す。しかし2節によれば「知恵」「識別」「主を知ること」等は全て「主の霊」すなわち聖霊の賜物である。つまり「水」は聖霊の賜物を象徴的(比喩的)に表現しており、12章3節は神なる主を「救いの泉」と表現する。

主はヨハネ4章で御自分を「生きた水」の源にたとえられ、これはエレミヤ17章12節の預言と符合し同章では主に信頼する人を水に根を張った木にたとえる(7節以下)。ヨブ29章19節も「水際に根を張る木」という比喩で主の御教えに根ざす信仰の堅固さや持続性を表し、マタイ13章にも対応する。

(注)別エントリー「試論:『根がない人』を140文字以内で」も参照のこと。
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民数記20章11節「モーセが杖で岩を二度撃つと、水が迸り出たので皆で飲んだ」ヨハネ19章34節「兵士が槍でイエスの脇腹を刺すと血と水が迸り出た」一コリント10章4節「モーセ一行は皆、共におられた神に由来する超自然的な岩から、神の水を飲みましたが、この岩こそキリストだったのです」。

イザヤ11章9節は、「水」で満たすように「大地は主を知る知識で満たされる」と記す。しかし2節によれば「知恵」「識別」「主を知ること」等は全て「主の霊」すなわち聖霊の賜物である。つまり「水」は聖霊の賜物を象徴的(比喩的)に表現しており、12章3節は神なる主を「救いの泉」と表現する。

(注)別エントリー「試論:『聖霊の働きの識別』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10196