試論:「終わりの時」の人々の姿を140文字以内で

二テモテ3章でパウロは「終わりの時」の人々の姿を記した。自分本位で金銭を愛し、嘘をつき、神を畏れず嘲り、両親に従わず、恩知らずで、他人を侮り、情け容赦なく、強情で、中傷し、節度がなく、残酷で、善を行わず、裏切り、軽率かつ高慢、信仰を装いつつ実際は快楽を愛し、事実上は棄教している。

(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8105

(注)別エントリー「試論:二ペトロ2章の『偽教師』140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10808

【追記】

マタイ22章14節「神から招かれる者は多いが、そこから神によって選ばれる者は少ない」箴言3章34節(ヤコブ4章6節、一ペトロ5章5節)「神は高慢な者には敵となられる。へりくだる者には恵みをお与えになる」ルカ1章48節「身分の低い、この主のはしためにも、神はその御目を留められた」。

マタイ22章は神の御前に立つためには「礼服」が不可欠と教える。詩編132編は9節で「正義を衣としてまとう」16節で「救いを衣としてまとう」と表現して「救い」すなわち神と共にある条件を、「正義」すなわち「神の義」(マタイ6章33節)とし、その具体例をコロサイ3章12節以下が教える。

主はマタイ24章10節と12節で、人心の荒廃が神殿の滅亡に先立つことを予告された。一方で一世紀ユダヤの歴史家ヨセフスは、紀元七〇年のエルサレム滅亡以前に暗殺や強盗殺人がユダヤの各地で頻発し、加害者が相手をローマの手先呼ばわりして自分たちの悪事を正当化していた事実を著作に記述した。

主はマタイ18章6節以下で、無垢な信仰を持つ子供をつまずかせる者は不幸であり厳罰は必至だと示唆された。詩編37編23節以下は主が御旨にかなう道を人間のために準備され、また人間の手をとらえ歩みを定めておられると記す。子供をつまずかせる(御旨から外れさせる)行為は絶対に容認されない。

レビ記19章には18節に有名な隣人愛の掟があるが、それに先立つ箇所には隣人愛に反する様々な行為を禁じる掟が列挙される。14節では、耳の不自由な人がいる前でその人が聴こえないのをいいことに悪口を言う行為と、目の不自由な人が歩いて行く方向に障害物を置いて邪魔をする行為とが禁じられる。

マタイ18章6節で主は「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて深い海に沈められる方がましである」と仰せになり、子供のような心で神を信じている人に悪を教え込もうとする者に対して、神がとりわけ厳しい罰をもって臨まれることを、主は宣言された。

エフェソ4章の後半以降(17節以下)では、洗礼を受けた人が取るべき(また避けるべき)態度を教える。悪態をつき、無慈悲で、平然と悪口を言い、思う通りにならないと大声で喚き、怒鳴り散らし、相手が幼子や女性だと小馬鹿にして勝ち誇る人がいたとして、誰が彼のことを信者だなどと思うだろうか?

マタイ22章14節「招かれる者は多く選ばれる者は少ない」の《選ばれない理由》をイザヤ65章12節は「呼んでも答えず、語りかけても聞かず、わたしの目に悪とされることを行い、わたしの喜ばないことを選んだからである」と記した。「笛を吹いたのに踊ってくれなかった」(マタイ11章17節)。

イザヤ59章2節「あなたたちの悪こそが、神とあなたたちの間を隔て、あなたたちの罪こそが、神の御顔を隠させ、神があなたたちに耳を傾けられるのを妨げている」ヨハネ14章24節「本当はわたしのことなど愛してはいない者は、決して御父とわたしの言葉や掟を受け入れはせず守ろうなどとしない」。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884