主はマタイ28章20節で十一人の弟子たちに、「わたしがあなたたちに命じておいたことを守るように、すべての民に教えなさい」と仰せになった。「命じておいたこと」の内容を知るには第一義的に四福音書を読まねばならない。次に使徒たちの手紙であって、黙示録や旧約聖書は優先順位的には後である。
【追記】
ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは《天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神》主イエスを表す称号であり主が直接人々にお話しになった御言葉を記したものが福音書である。福音書を顧みず他のものばかりに目を奪われ続けるならばイエス・キリストがわからなくなる。
主はヨハネ13章34節で「互いに愛し合いなさい」と「愛の掟」をお授けになったが、「わたしがあなたがたを愛したように」と付け加えられることによって、御自身を模範(全人類のあるべき姿)としてお示しになった。「言(ことば)」である主が「肉」つまり人間となられた意義の一つがここにあった。
(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネの第一の手紙の4章は「反キリストの霊」の特徴を説明している。神からの霊が主イエス・キリストの福音を解説するのに対し、人を惑わす霊は信仰を自称しつつ世界情勢(国際情勢・社会情勢)を好んで語る一方でキリストの福音の中身に関しては全く意を尽くすことなく沈黙する、という特徴を持つ。
(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
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二テモテ4章でパウロは、人々が「御言葉」(2節)つまり《主が人々の前に御姿をお見せになり直接人々にお話しになった御教え》には耳を傾けなくなり、「自分に都合の良い」(3節)「作り話」(4節)つまり真の御言葉ではない紛い物の方に引かれていくと警告したが、対策は福音書を読む以外にない。
ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神」主イエスを表す称号であり主が直接人々にお話しになった御言葉を記したものが福音書である。福音書を顧みず他のものばかりに目を奪われ続けるならばイエス・キリストがわからなくなる。
日本語でも「人としての道から外れる」などと表現するように、主イエスが「わたしは道」と仰せになる際の「道」とは、誰もがそこを通って進んで行くべき人間としての道筋、つまり御父である神の御前における、人間としてのあるべき姿(人間としてのあり方や生き方の規範・模範)という意味合いである。
(注)別エントリー「試論:『わたしは道』を140文字以内で」も参照のこと。
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エレミヤ23章は、偽預言者たちが「託宣」を捏造して「わが民がわたしの名を忘れるように仕向ける」と、主なる神がお嘆きであることを記した。一ヨハネ4章も、キリストの弟子を自称する人々がキリストについて沈黙する一方で世間的な事柄だけ語っていることを、「反キリストの霊」と呼んで非難した。
(注)別エントリー「試論:『偽預言者』を140文字以内で」も参照のこと。
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