試論:「選ばれる人の理由」を140文字以内で

主はマタイ7章26節で「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は、砂の上に家を建てる人に似ている」と教えられた。22章14節「招かれる者は多いが選ばれる者は少ない」とは、「わたしの教えを耳にしたことのある者は多いが、それを真摯に受け止めて日々実践している者は少ない」という意味である。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

マタイ22章14節「神から招かれる者は多いが、神に選ばれる者は少ない」ヨハネ14章23節「本当にわたしを愛している人なら、わたしの言葉を守るはずだ。御父とわたしはその人のところに行って、一緒に住む」24節「本当はわたしを愛していない者は、決してわたしの言葉を守ろうなどとしない」。

(注)別エントリー「試論:『人の行いに応じた報い』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ22章14節で「招かれる者は多いが選ばれる者は少ない」と仰せになったが、「選ばれる者」が「選ばれる」瞬間の主の御言葉を、25章34節は「さあ、わたしの御父に祝福された人たち、あなたたちは、天地創造の時からあなたたちのために準備されていた神の王国を受け継ぎなさい」と記す。

(注)別エントリー「試論:『主の祈り』と最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ22章14節「招かれる者は多く選ばれる者は少ない」7章21節「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心(=神の義)を行う者だけが入る」23節「不法を行う者ども、あなたたちのことなどわたしは全く知らない。わたしから離れ去れ」。

マタイ22章14節「招かれる者は多く選ばれる者は少ない」の《選ばれない理由》をイザヤ65章12節は「呼んでも答えず、語りかけても聞かず、わたしの目に悪とされることを行い、わたしの喜ばないことを選んだからである」と記した。「笛を吹いたのに踊ってくれなかった」(マタイ11章17節)。

イザヤ59章2節「あなたたちの悪こそが、神とあなたたちの間を隔て、あなたたちの罪こそが、神の御顔を隠させ、神があなたたちに耳を傾けられるのを妨げている」ヨハネ14章24節「本当はわたしのことなど愛してはいない者は、決して御父とわたしの言葉や掟を受け入れはせず守ろうなどとしない」。

マタイ22章14節「招かれる者は多く選ばれる者は少ない」ルカ13章23節「救われる者は少ないのですか」27節「不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」マタイ6章33節「神の国と神の義を求めなさい」ヨハネ14章23節「わたしを愛する者はわたしの言葉を守り父とわたしはその人と住む」。

主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

二テモテ3章でパウロは「終わりの時」の人々の姿を記した。自分本位で金銭を愛し、嘘をつき、神を畏れず嘲り、両親に従わず、恩知らずで、他人を侮り、情け容赦なく、強情で、中傷し、節度がなく、残酷で、善を行わず、裏切り、軽率かつ高慢、信仰を装いつつ実際は快楽を愛し、事実上は棄教している。

救い主を預言する際ダビデとエリサベトは「わたしの主」と呼ぶ。救い主には人間として母親しか存在せず、マリアは救い主を「わたしの肉の肉」(創世記2章23節)と呼んで誇ることもできたが、しかし母から人々への伝言は、「万事この人の言う通りにしてください」(ヨハネ2章5節)まずこれである。

(注)別エントリー「試論:『わたしの主』と母マリアを140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ1章には「マリアの賛歌」があるが、内容は「神は高慢な者を敵とし、へりくだる人に恵みをお与えになる」(箴言3章34節、ヤコブ4章6節、一ペトロ5章5節)と一致する。主の周囲でへりくだりがどれほど重視されていたかを、「主のはしため」(ルカ1章38節、48節)という言葉が象徴する。

もし仮にそれが名もない女性だったとしても、人となられた神のために、ただただ手料理を三十年前後ものあいだ作り続けた女性がもしも実際に存在したとするなら、その一事のみをもって、その女性は全世界から崇敬を集めるに値する。まして彼女は、裁縫も洗濯も掃除もその他全ての神の家の家事を行った。

主イエスはマタイ20章28節で御自分が人間となられた目的を「仕えられるためではなく仕えるため」と仰せになった。その三十年以上前、ルカ1章38節で救い主の母となることを告知された女性は「わたしは主のはしため」と答え、彼女が「救い主の母」という立場を的確に認識していることが記される。

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスは神であり続けながら人間の肉体と魂を担い(ヨハネ1章14節)、割礼から神殿税まで人間の義務も全て担われた。両親に従う義務も当然担われた(ルカ2章51節、マタイ20章28節)。人へ模範を示されるため主は人となられたのだから、主が母親を軽視されたと考えることは道理に合わない。

(注)別エントリー「予備的考察:聖母崇敬そして聖ヨセフ崇敬の起源とは」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『イエスは全人類の模範』を140文字以内で」も参照のこと。
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