試論:エバの創造とマリアの誕生を140文字以内で

創世記2章22節はエバの創造を記す際、祭壇や都市を築き上げた時と同じヘブライ語を用いて、エバは細心の注意を払いつつ達成された主なる神の《苦心の作》だと示唆する。ましてや天の御父が、御子の母となる女性の受胎から誕生に至るまでの間、エバに対する以上の御配慮をなさらないはずがあろうか?

(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
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【追記】

創世記3章15節で神は、サタンと決定的に対立する一人の女性が将来現れることを予告された。黙示録12章では、それは救い主の母となった女性のことだと啓示された。救い主は人々を罪や悪から救うために生まれるので、その母が存在の最初の瞬間から罪や悪とは完全に無縁であるべきなのは当然である。

(注)別エントリー「試論:黙示録12章の『鉄の杖』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「創世記3章15節:蛇の頭を踏み砕く者は誰か」も参照のこと。
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創世記3章でエバが蛇の誘惑に惑わされた後、主なる神は、エバに代わって蛇(サタン)と徹底的に対立する一人の女性が将来現れることを予告されたが、黙示録12章では、それは救い主の母となった女性のことで救い主に従おうとする全ての人々にとっても彼女は母の役割を果たすであろうと、啓示された。

黙示録12章17節〜18節「竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者(神の掟を守り、イエスの証しを守り通している者)たちと戦おうとして出て行った。竜は海辺の砂の上に立った」ローマ9章27節「たとえ、イスラエルの子孫の数が、海辺の砂のようであったとしても、残りの者が救われる」。

エバはアダムとともに、全人類の「命」(創世記3章20節)の創始者となったが、初子カインは大罪を犯して永遠の滅び(知恵の書10章3節)に至った。マリアはサタンと徹底的に対決(黙示録12章)することで第二のアダム(ローマ5章)である初子イエスとともに、全人類に「永遠の命」をもたらす。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:聖母の被昇天を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ1章4節は「言(ことば)の内に命があり、命は人間を照らす光」と記す。これはヨブ33章27節以下「わたしは罪を犯し正義を曲げたが、すべきでなかった。神はわたしの魂を滅びから救われ、命を得てわたしは光を仰ぐ」を踏まえており、主が御言葉で人間の魂を滅びから救われることを宣言する。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『人間を照らす光』って?を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスは神であり続けながら人間の肉体と魂を担い(ヨハネ1章14節)、割礼から神殿税まで人間の義務も全て担われた。両親に従う義務も当然担われた(ルカ2章51節、マタイ20章28節)。人へ模範を示されるため主は人となられたのだから、主が母親を軽視されたと考えることは道理に合わない。

主イエス・キリストは、人間たちに模範(ヨハネ13章34節)を示されるために、神であり続けながら(ヘブライ13章8節)人間の肉体と魂を担われた(ヨハネ1章14節)以上は、神として教えられた掟(申命記5章16節)を人間として自ら忠実に実践された(ルカ2章51節、マタイ20章28節)。

箴言15章4節では赦しを与える言葉を命の木と記し、相手に安堵と幸福を与える言葉を「命」と表現した。創世記50章では父の死を機に復讐されるのではないかと恐れる兄たちに対し、ヨセフは赦しを再確認する言葉で安堵させた。ヨハネ6章68節は主イエスを「永遠の命の言葉を持つ」と表現している。

(注)別エントリー「試論:『主にとって赦しも癒し』を140文字以内で」も参照のこと。
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