主はヨハネ15章2節で「わたしにつながっていても実を結ばぬ枝は全て御父が取り除かれ、実を結ぶ枝は全て御父がさらに豊かに実るよう手入れをなさる」と仰せになった。ヤコブ3章でも17節と18節に「実」が登場し、知恵・純真・温和・優しさ・従順・憐れみ・義・平和が特徴であることを説明する。
(注)別エントリー「試論:『新たに生まれなければ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9816
【追記】
エフェソ4章の後半以降(17節以下)では、洗礼を受けた人が取るべき(また避けるべき)態度を教える。悪態をつき、無慈悲で、平然と悪口を言い、思う通りにならないと大声で喚き、怒鳴り散らし、相手が幼子や女性だと小馬鹿にして勝ち誇る人がいたとして、誰が彼のことを信者だなどと思うだろうか?
マタイ25章45節で主は「この小さな者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったことである」と仰せになり、隣人愛の実行を神への愛の基準にすると宣言された。従って「私は周囲とはトラブルを起こしてばかりですが、主よ、あなたへの愛だけは誰にも負けません」という自己申告は、通用しない。
マタイ25章45節「この小さな者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったことである」は、一ヨハネ4章20節で「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」と繰り返され、21節は神から受けた掟として「神を愛する人は兄弟をも愛すべきです」と断言している。
マタイ7章21節の主の仰せ「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」の「主よ」という呼び掛けは、当然、25章44節「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、〜」という箇所とは内容的に直結しており、信仰義認の適不適を判断する良い基準である。
主イエスはヨハネ15章2節で「わたしにつながっていても実を結ばぬ枝は全て御父が取り除かれるが、実を結ぶ枝は全て御父がさらに豊かに実るように手入れをなさる」と仰せになり、ガラテヤ5章22節以下でパウロは「実」の具体例を、愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・柔和・節制と列挙した。
神の霊つまり聖霊が人間に賜るものをガラテヤ5章は愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制と説く。主はマタイ6章33節で「神の義」を求めよと仰せになり、同22章でそれを「礼服」にたとえられる。コロサイ3章では、着るべきものとは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛と説く。
(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008
御復活の主はルカ24章47節で「罪の赦しをもたらす悔い改めがあらゆる国で宣べ伝えられる」と仰せになったが、3章3節では洗礼者が罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えたと記し、のみならず同8節では悔い改めにふさわしい実を結べと命じており、10節以下は具体的な指示をも記す。