【問】使徒言行録23章8節は復活をサドカイ派は認めずファリサイ派は認めると記します。後者の認識は何に由来しますか?
【答】イザヤ25章8節は神なる主の御力は死にも打ち勝ち、同26章19節では主が準備されている復活の体を同章18節の人間の出産による体と比ベてはるかに勝ると預言します。
【追記】
主イエスの敵としてサドカイ派とファリサイ派の名が福音書に登場するが、使徒言行録23章8節の通り、前者は復活を認めず、後者は復活を認めていた。ヨハネ11章のラザロの復活の場面を目の当たりにしたファリサイ派の人々の一部は、もうイエスを否定できないと判断した(マルコ12章28節以下)。
主イエスはヨハネ12章23節以下で御自分の十字架の死により悪魔の罪と死の支配を終わらせる(ヘブライ2章14節以下参照)と宣言された。それはイザヤ25章8節の預言の成就だがイザヤのその節の前後は、成就の地エルサレムを「この山」と呼ぶ。ダニエル書9章16節「聖なる山」とも同じである。
(注)別エントリー「試論:御受難と『永遠の命』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ20章9節では、〔旧約〕聖書がイエスの復活を語っていると記す。
イザヤ25章は、
「この方こそ、わたしたちを救ってくださる、わたしたちが待ち望んでいた神」(9節)
と呼ばれる方が、
「この山」(7節)
と呼ばれる場所において、
「死を永久に滅ぼしてくださる」(8節)
ことを預言している。
主はヨハネ11章25節で御自身を復活と命だと称され、6章63節では命を与えるのは「〔神の〕霊」だと仰せになった。コヘレト12章7節は人間の死でその肉体は塵(土)に還るが、命を与えられたその霊は「与え主」である神の許へと還るとし、一コリント15章44節は「霊の体が復活する」と記す。
【問】福音書で「洗礼者の死」の箇所等を読むと、洗礼者が生き返った存在がイエスだとヘロデは思ったようで民衆の一部も同意見でした。どういうこと?
【答】「死者の復活」について、当時のユダヤ人の間に様々の〔間違った〕認識が存在したことを示唆しています。コヘレト12章7節が正しい答えです。
(注)別エントリー「試論:人間の完成形(最終形態)を140文字以内で」も参照のこと。
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ヘブライ5章9節は「キリストが〔御受難を経験された後に〕完全な者になられた」と記す。神でもあり人間でもあるキリストは、神としては天地創造以前から既に当然だが完全な者である。人間としては御受難を経験された後「復活の体(=天上の体、霊の体)」すなわち人間としての完成形へと到達された。
(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851