試論:ユダには信仰があったか?を140文字以内で

【問】ヨハネ12章でユダがベタニアのマリアをなじった時、彼に信仰はありましたか?
【答】詩編12編の5節までにある通り旧約の民は原則として、口先だけ達者でも言行不一致の人や面従腹背の人の中には信仰の存在を認めていませんでした。献金泥棒に手を染めてから彼の信仰は事実上、失われました。

【追記】

ヨハネ2章22節は、主が復活された際、過去の主の仰せを思い出した弟子たちは〔旧約〕聖書と主の仰せとを信じたと記す。この「信じた」は、「納得した」「了解した」「腑に落ちた」「合点がいった」等の意味合いである。「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる者は、幸い」も同じことである。

ヨハネ福音書は「永遠の命」「信じる」を多用する。ただし「何をすれば永遠の命を得られるか」の具体例はマタイ25章「最後の審判」とルカ10章「善きサマリア人の話」の箇所にあり、ルカ10章27節で主イエスは、「信じる」こととは「心・精神・力・思いを尽くし愛する」ことだとお教えになった。

古代よりヨハネ福音書には「信仰」を意味するギリシア語が登場しないことが知られていた。その替わりヨハネ福音書は「真理」を意味するギリシア語アレテイアを多用する。主イエスはピラトの問いに対し御自分のことを王だとも神だともお答えにならず、ただ「真理」すなわち信頼すべき者だと宣言された。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書の『信じる』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
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詩編12(11)編においてダビデは、隣人に嘘をついたり隣人を早口で欺いたり言行不一致状態だったりする人々ばかりの風潮を、「信仰のある人は消え去りました」(12編2節、新共同訳)と表す。ここで「信仰」と訳されるヘブライ語を、古代のギリシア語訳聖書はアレテイア(真理、まこと)と訳す。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ福音書は「信仰」を表現する際、他の福音書が用いるピスティスという語を用いず代わりにアレテイア(真理、まこと)という語を多用する。ヨハネにとって信仰とは、人の真心に対し真心で応じられる神なる主に向かって嘘偽りや裏表のない態度で接することに他ならず、これは当時の共通認識だった。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
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イザヤ59章2節「あなたたちの悪こそが、神とあなたたちの間を隔て、あなたたちの罪こそが、神の御顔を隠させ、神があなたたちに耳を傾けられるのを妨げている」ヨハネ14章24節「本当はわたしのことなど愛してはいない者は、決して御父とわたしの言葉や掟を受け入れはせず守ろうなどとしない」。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
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主はマタイ18章6節以下で、無垢な信仰を持つ子供をつまずかせる者は不幸であり厳罰は必至だと示唆された。詩編37編23節以下は主が御旨にかなう道を人間のために準備され、また人間の手をとらえ歩みを定めておられると記す。子供をつまずかせる(御旨から外れさせる)行為は絶対に容認されない。

マタイ22章14節「招かれる者は多く選ばれる者は少ない」の《選ばれない理由》をイザヤ65章12節は「呼んでも答えず、語りかけても聞かず、わたしの目に悪とされることを行い、わたしの喜ばないことを選んだからである」と記した。「笛を吹いたのに踊ってくれなかった」(マタイ11章17節)。

マタイ22章14節「神から招かれる者は多いが、そこから神によって選ばれる者は少ない」箴言3章34節(ヤコブ4章6節、一ペトロ5章5節)「神は高慢な者には敵となられる。へりくだる者には恵みをお与えになる」ルカ1章48節「身分の低い、この主のはしためにも、神はその御目を留められた」。

レビ19章18節は隣人愛の掟を記すが、15節は貧者救済の理由であろうと判断を惑わされてはならないと説く。ヨハネ12章でイスカリオテのユダが貧者救済を理由にベタニアのマリアを攻撃した際、主イエスはユダの言葉が貧者救済を口実にした単なる言い掛かりに過ぎないと見抜かれ、女性を擁護した。

(注)別エントリー「試論:『人間を照らす光』って?を140文字以内で」も参照のこと。
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二テモテ3章でパウロは「終わりの時」の人々の姿を記した。自分本位で金銭を愛し、嘘をつき、神を畏れず嘲り、両親に従わず、恩知らずで、他人を侮り、情け容赦なく、強情で、中傷し、節度がなく、残酷で、善を行わず、裏切り、軽率かつ高慢、信仰を装いつつ実際は快楽を愛し、事実上は棄教している。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』140文字以内で」も参照のこと。
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エフェソ4章の後半以降(17節以下)では、洗礼を受けた人が取るべき(また避けるべき)態度を教える。悪態をつき、無慈悲で、平然と悪口を言い、思う通りにならないと大声で喚き、怒鳴り散らし、相手が幼子や女性だと小馬鹿にして勝ち誇る人がいたとして、誰が彼のことを信者だなどと思うだろうか?

(注)別エントリー「試論:『ねたみや利己心のある』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ18章6節で主は「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて深い海に沈められる方がましである」と仰せになり、子供のような心で神を信じている人に悪を教え込もうとする者に対して、神がとりわけ厳しい罰をもって臨まれることを、主は宣言された。

主イエスは「自分が隣人からしてもらいたいことを自分から隣人にしなさい」を御自分の《律法》すなわち御教えの根幹とされ、弟子たちの足を洗われ隣人への敬意と尊重の重要性を教えられた。しかし御自身は次の晩が来る前に、尊重や敬意とは無縁の暴力や虐待や侮辱の末にぼろ布のようにされて殺された。

(注)別エントリー「試論:御受難と主の僕(しまべ)を140文字以内で」も参照のこと。
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