試論:「世の罪を取り除く」を140文字以内で

ヨハネ1章29節「世の罪を取り除く神の小羊」の「取り除く」に当たるギリシア語は、一ヨハネ3章5節にも登場し、その前後では隣人愛の実践を奨励するが、同じ表現をエフェソ4章31節も用い、主に応えて信者が取り除くべきものを「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりを全ての悪意と共に」とする。

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3277

【追記】

主の御受難を預言したイザヤ53章7節では、出エジプトの代価となった「小羊」(出エジプト記12章3節等)を想起させる一方で、「屠(ほふ)り場に引かれる」と表現してイサクの犠牲の身代わりとなった羊(創世記22章13節)をも想起させ、主の御受難が人々の身代わりであることを再認識させる。

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7479

エフェソ4章の後半では、「神にかたどって造られた新しい人」として生きるために、「怒ることはあっても罪を犯してはならない」「日が暮れるまで怒ったままではいけない」「悪い言葉を一切口にしない」「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどの全てを、一切の悪意とともに捨てる」等を勧めている。

一ペトロ2章の冒頭は「霊的な乳飲み子」について語っているが、ここでペトロは「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去る」ことを要請しており、当然ペトロは、あまりにも有名な「人から出て来るものこそ、人を汚す」で始まる、マルコ7章20節から23節の主の御言葉を念頭に置いて説明する。

マタイ22章「礼服」に関連して、パウロはコロサイ3章で、キリストに結ばれていたいと望む人々が「着る」つまり身に着けるべき事柄に関してとりわけ10節以下で論じ、5節から9節では脱ぎ捨てるべきものも説く。身に着けるべきは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、そして愛だとパウロは説いた。

主はマタイ18章で、「心を入れ替えて子供のようにならなければ決して天の国に入ることはできない」と仰せになり、「心を入れ替える」(3節)と「自分を低くする」(4節)の二つが、子供のようになるために必要であると教えられた。弟子たちは詩編131編を歌うたび以前から学んでいたはずである。

主はヨハネ14章27節で「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と仰せになった。ではどうやって主は御自分の平和をお与えになったのか、パウロがコロサイ1章20節で「その十字架の血によって」と答えを記した。