試論:マルコ1章「権威ある者」を140文字以内で

マルコ1章22節でイエスの教えを聞いた人々は、権威ある者の「新しい教え」(同27節)だと驚いた。マタイ7章29節でも人々は同じく驚いたが、イエスが「わたしに対して『主よ、主よ』と言う者が〜」(同21節)と口にして、自身をモーセや他の預言者を超越する存在と位置付けていたからである。

【追記】

ネヘミヤ記の時代、当時の預言者たちが周辺異民族に買収されていた不祥事が発覚(同6章)後、ユダヤから預言者が姿を消し、改革を担った祭司エズラは預言者としてでなく書記官(律法学者)の立場で民を導いた。以後、福音書の時代まで、律法学者がモーセや他の預言者の言葉に基づいて民を教え導いた。

(注)別エントリー「試論:ネヘミヤ6章の『預言者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10531

(注)別エントリー「試論:『律法学者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11518

主イエスは「昔の人はこのように教えられたが、わたしは次のように言う」(マタイ5章21節〜22節)という物言いをなさったが、律法学者たちはこのような教え方をしなかった。主イエスの教えの極め付けは「他の人にしてもらいたいことはなんでも他の人にしなさい。これこそが律法と預言者」だった。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541